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欠格条項の見直しと
障害のある人に対する差別禁止法

山田裕明

1、法の下の平等とは

 およそ差別が許されないということは、観念的には国民の間にも広く浸透しています。憲法も14条で法の下の平等の原則を規定するほか、24・44条でもそれぞれの場面での平等を重ねて規定し、法律にも平等条項を置くものが多数あります(教育基本法3条、労働基準法3条等)。それにもかかわらず、いつの世にも障害のある人に対する差別はなくなりません。
 ここで差別といっても、人と人との取り扱いに差を設けることが全てここに言う差別として禁じられるというわけではありません。例えば、障害のある人でも所得の多い人と少ない人がいます。所得税法は所得額に応じて所得税の税率に差を設けていますが、これは必ずしも平等原則違反とは言えません。また、聴覚に障害のある人に対して福祉政策として無償で補聴器を交付することも聴覚に障害のない人を差別したことにはなりません。それはむしろ憲法25条の規定する生存権の保障の要請するところです。ここから、ここでいう差別とは合理的な理由なしに人と人との取り扱いに差を設けることをいうと考えられます。その合理性の有無は民主主義的福祉国家の観点から考えなければなりません。経済的合理性の観点のみで考えることは許されないのです。
 なお、次の点にも注意する必要があります。
1.ここでいう平等とは絶対的なものではなく、相対的なものです。そうすると何が差別に当たるのか、判断が難しい場合が出てきます。
2.形式的に法規を平等に適用すれば足るというのではなく、その法規の内容も実質的に平等でなくてはなりません。例えば聴覚に障害のある人には選挙権を否定するという法律があるとしましょう。それを国民全てに等しく適用するとして、その結果は平等でしょうか? これから述べる欠格条項にはこのようなものが多数あります。

2、欠格条項

(1)法律上の差別と事実上の差別

 差別には法律上のものもあれば事実上のものもあります。障害のある人に対する法律上の差別の例としていわゆる欠格条項があります。一定の障害の存在を理由として資格や免許を付与しないとしたり、施設の利用を拒否する等の内容を定めた法規を言います。かっての医師法や薬剤師法が耳の聞こえない人にはそれぞれの免許を与えないとしていたのが典型です。こうした欠格条項は平成11年の旧総理府の調査によると63あるということになっていますが、実際にはそれ以上あると思われます。ある調査によると300以上あるといわれています。この違いは成年被後見人・被保佐人に対する欠格を定める場合をカウントするか否かによるところが大きいのですが、実態に着目すると、これもカウントに入れる、従って欠格条項の総数は300以上と考えるべきでしょう。
 このような欠格条項は前述した平等原則に反する場合が多いと考えられます(そのほかに憲法13条の幸福追求権、同22条の職業選択の自由に触れることも問題となります)。欠格条項の趣旨は特定の障害があるとその資格に基づく業務を正常になしえないだろうという漠然としたおそれ(というよりも偏見)を基礎としている場合が多いのです。しかし、障害があってもその業務をなしうる人となしえない人がいます。前者の場合には資格等を付与すべきものです。
 昨年改正される前の道路交通法88条を例にとってみましょう。そこでは目が見えない者、耳が聞こえない者又は口がきけない者には自動車の運転免許を与えないこととしていました。このうち、まったく「目が見えない者」は自動車の運転免許を拒否されてもしかたがないでしょう。まったく自動的に安全に走行できる自動車はいまだ実用化されていませんから。しかし耳が聞こえない者・口がきけない者の場合はどうでしょうか。この場合、物理的には自動車の運転は可能です。聞こえないことによる運転の危険はほとんど無視してよいくらいのものです。口がきけないことは運転とはまったく関係はありません。従って聴覚・言語の障害を欠格事由とすることには合理性がないというべきでしょう。昔は警察庁はこの規定をかなり厳格に適用して聴覚に障害がある人に運転免許を交付しなかったので、必要に迫られて無免許で運転して裁判にかけられた例がありました。しかし、さすがに警察庁もその不合理性に気が付いたのでしょう、補聴器をつけて10メートル離れたところで90デシベルの音が聞こえる場合には運転免許を交付する扱いに改めました。ここから次の二つのことに注意すべきです。
 第一に、障害があっても補助手段で克服できる場合には欠格としてはいけないということ。補助手段にはいろいろのものがあります。補聴器のような機械によるもののほか、薬物でてんかんの発作を押さえることなども考えられます。そして補助手段の発達は日進月歩ですから、制限の合理性を判断する場合には、その時代の補助手段を基準にして考えなければなりません。判断基準は万古不易ではないのです。
 第二に、しかし完全な聾の人にはいまもって免許の道を閉ざしています。果たして、このような取り扱いに合理性があるのでしょうか? 外国では聴覚に障害がある人でも運転免許の欠格としない場合が多いのです。
 なお、以上のようなはっきりした欠格条項のほかに、法規の解釈によって障害がある人の権利を制限するものがあることにも注意してください。これを隠れたる欠格条項ということができましょう。次のようなものがあります。
1.民法旧11条:盲者・唖者・聾者を準禁治産者となしうるとしていた=ここから盲者等は即ち準禁治産者であるという誤解が生じ、住宅ローンを断られる等の実害が生じた。
2.民法旧969条:聴覚・言語に障害のある人は公正証書遺言の制度を利用できなかった。
3.公職選挙法150条:聴覚・言語に障害のある人のために政見放送に字幕・手話をつけることが制限されている。
4.著作権法20・21条:字幕のないテレビ番組の音声を文字化して配信することが制限されている。

(2)一連の見直しをどう評価するか

 欠格条項の多くは合理的な理由もなしに障害のある人の権利を制限するものですから、その撤廃が唱えられるのは当然です(ちなみに主要先進国ではこれほど欠格条項の多い国は珍しいのです)。先人の努力により、前記の民法11条が昭和54年に改正されましたが、その後はしばらく運動は下火でした。しかし、平成9年に民法969条改正運動が始まり、その少しあとから本格的に欠格条項全般の見直しが求められていきました。政府も平成11年から欠格条項の見直しに着手し、現在63の欠格条項のうち47は措置済み、13を改正手続中としています。
 この一連の改正をどう評価すべきでしょうか。民法969条の改正により聴覚に障害がある人でも公正証書遺言制度を利用できるようになりました。医師法の改正前から聴覚に障害のある医師(但し失聴は医師資格取得後)がいましたが、医師法の改正により、医師資格剥奪という問題は回避されたようです。また、薬剤師試験に合格しながら薬剤師法の欠格条項に阻まれて薬剤師の免許を付与されなかった聴覚に障害のある人にも、薬剤師法の改正により、その免許が付与されました。これらは一応実効性のある改正といえるでしょう(但し、欠格条項が改正されたからといって障害のある医師・薬剤師がどんどん誕生して事実上の差別状態も改善されるということにはなりません。それには教育等における差別が撤廃される必要があります。それは差別禁止法の問題につながっていきます)。
 しかし、他方道路交通法88条は改正され、特定の障害をあげて欠格とすることはなくなりましたが、道路交通法施行令及び施行規則でこれまでとほとんど同じ制限が続く見込みです。これでは改正の名に値しないものというべきで、実質的な改正になるまで改正の運動を続けなければなりません。また、政府が欠格条項としてカウントしていないものが200以上あります(以上を通じて、精神関係の障害のある人に対する偏見とそれに基づく欠格条項がはなはだ多いことに特に注意してください)。さらには上述した隠れたる欠格条項のうち残った3.4.のものの改正も必要です。そして、欠格条項全ての是正ができたとしても、事実上の差別は残るでしょう。障害のある人の真の平等の実現はまだまだ先なのです。

3、差別禁止法について

 このように障害のある人の権利実現は進行しつつあるとはいえ、まだまだ十分とはいえない状態です。このような現状に鑑みるとき、アメリカのADAや英国のDDAのような障害のある人に対する差別禁止法(JDA)の制定が絶対的に必要です。それは、実体的な権利保障の面と、それを手続き的に保障する面の双方から必要となっています。
 実体的な権利保障とは、障害のある人が差別を受けるということは、その人が権利を侵害されたことを意味し、その侵害状態を是正し、損害を填補される権利を有するということであり、そのことを法律で規定することです。平等の権利の保障は憲法に根拠を置くのですが、憲法の権利を現実に行使するためには法律の規定が必要なのです。例えば、憲法に規定された労働者の権利を保障するために労働三法等が制定されています。ところが障害のある人の平等権を保障する法律は日本ではいまだ存在しないのです。そういう場合には憲法を基礎として直接救済を求めればよいのではないかという考えもあるでしょう。そういうことも絶対に不可能ではないと思います。しかし、憲法の規定は抽象的です。どういう場合が権利侵害に当たるのか、解釈の指針がなく、具体的な紛争に当たっての解決規範としては不十分です。アメリカのADAでは許されない差別を類型化してその規範を示しているのです。日本でも同様の手当てが必要でしょう。また、憲法は原則として公権力と国民の間を規律するものですが、差別は私人相互の関係で起こることも多いので、憲法だけでは不十分といえます。
 さらに、権利侵害があった場合、現在の民法では原則として損害を金銭で填補する建前となっています。しかし障害のある人の平等権保障が問題となっている場合には、金銭による損害賠償を受けても、差別が解消されるわけではありません。どうやって差別を解消するかは難しい問題ですが、民法の原則以外にも手当てが必要でしょう。
 実体的な権利を保障するとして、権利侵害があった場合の救済手続も大事です。どんなに権利があっても救済手続がなければその権利は絵に書いた餅です。この場合の救済手続としては現在の法体系にのっとって裁判手続で争う方法も重要ですが、それでは迅速・十分な救済が得られない場合も考えられるのでこういう問題に習熟した機関による調停・仲裁手続も必要でしょう。その場合にはその機関の構成員の中に障害のある人が参加しなければならないことはもちろんです。
 差別禁止法の必要性についてはおわかりいただけたと思います。その実効性についてですが、外国で欠格条項の有無について調査したところ「わが国には差別禁止法があるから欠格条項は存在しない」という回答があったそうです。象徴的だと思います。もちろん差別禁止法にも限界はあります。そのことはADAの生みの親とも言うべきアメリカのグラン弁護士も指摘しています。しかし、ADAやDDAが大きな効果をあげていることと欠格条項の撤廃すらまだ満足にできておらず、障害のある人に対する法律上・事実上の差別がはびこっていてその救済手段が十分でないという日本の実情を対比するとき、日本こそ早急に差別禁止法の制定が必要というべきです。日本弁護士連合会は昨年の人権大会でその制定を求める宣言をしましたし、国連からも勧告を受けています。国会でも政府も検討事項としています。いまこそ障害のある人の真の平等の実現のために差別禁止法が制定されるべきときなのです。

(やまだひろあき 弁護士(日弁連差別禁止法調査研究委員会委員))