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文学にみる障害者像

ワシリー・エロシェンコ著 高杉一郎訳編
『ある孤独な魂』

中島虎彦

 エロシェンコといっても覚えている人は少ないだろう。大正から昭和初期にかけて、「エロさん」と呼ばれて親しまれた童話作家・詩人であるらしい。名前が名前だけにくぐもった苦笑いがまとわりついてもいたことだろう。
 口絵をみると、まるで赤鬼のような風貌である。彼の歩んだ苦難の人生と、それに対する怒りが色濃く投影されているのだろう。それでも彼の何ものにも屈せぬ孤高な精神は今でも十分輝きを放っている。
 ワシリー・エロシェンコ(1889~1952年)は、南ロシアのウクライナ生まれ。4歳のときにはしかで失明し、9歳でモスクワの閉鎖的な盲学校に入らされる。そこの9年間、教師からさまざまに理不尽な虐待を受け、反骨精神が養われる。
 卒業すると、盲人オーケストラに入りレストランなどで演奏する。客の婦人から才能を見込まれイギリスの盲学校で正式に音楽を習うよう勧められる。そしてエスペラント語を教えられる。やがてロンドンの盲人師範学校に入るが、亡命中のクロポトキンを訪ねるなどして放校になる。
 いったん故郷に帰るが、「日本では盲人もみなマッサージをやって自活している」と聞いて、1914年に来日し、雑司が谷の東京盲学校に入学する。
 在学中にはバラライカを弾いてロシア民謡を歌うなどして人なつこく、秋田雨雀らと親しくなる。そこで創作欲をかきたてられ、「早稲田文学」などに詩や民話や童話を発表するようになる。口述筆記で書かれた作品が大杉栄や神近市子や相馬黒光らに認められる。一方、あちこちの講演会に出てエスペラント語で思想問題を話しては人気を博したという。大正5年にはタイ、ビルマ、インドと旅をし、ビルマでは盲学校の教師も務めたりしたが、インドで国外追放となり日本に舞い戻る。
 しかし、ロシア革命がビルマ滞在中の1917年に起きる。28歳のときだった。そのためますます階級社会のひずみに激しい義憤を抱くようになる。たとえば王女と漁師の悲恋を描いた「海の王女と漁師」という童話にも、無政府主義的な社会思想がありありと反映されている。それだけならプロレタリア文学やある種の障害者の文芸などのように画一的な横顔を見せてしまう恐れがあるが、彼の場合は、登場人物のふとしたしぐさの中に深い人間心理の機微を描きだしている。また、支配者側を糾弾するばかりでなく、「せまい檻」という童話では虎や羊に託して、小市民の奴隷根性ぶりに嫌悪と悲憤をも示している。
 そんな1921年、33歳のとき、メーデーに参加した件でソ連のスパイではないかという嫌疑を受けて、ウラジオストックへ国外追放になる。共産主義者への弾圧の嵐が吹き荒れてくる時代であった。
 しかしチタから北京へ行き、作家の魯迅や周作人兄弟と親交をむすび、その小説「あひるの喜劇」のモデルとなったりする。それから東南アジアを放浪したり、ヘルシンキの万国エスペラント大会に出席したりしたのちロシアに帰国する。大変な行動半径の広さである。自然にあこがれながらも大都会ばかりをさまよい、悲惨な現実を見せつけられたと振り返っている。有名人好きのようなところもあるが、そのときどきで手を貸してくれる人を見つけるのがうまかったのだろう。
 日本に滞在したのは10年ほどであるが、日本語のうまさはだれもが舌を巻くほどであったという。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)よりも日本人らしかったという。日本の児童文学に新風を吹きおくった貢献度から、この本のように日本文学全集に収められている例もある。まさしくその発想を育んできたのはアジアであると言ってよい。日本に来てから才能を開花させているところが、私たちには何となく誇らしい。しかし帰国してからはあまり認められず、不遇のうちに死んだという。近年になってようやくロシア語やウクライナ語でも創作集が出版されている。
 その他の童話作品としては、鷲の誇り高さと人間のやさしさの間で引き裂かれる姿を描いた『鷲の心』などがある。ロシアやインドやセルビアの民話が下敷きにされている。詩に『悲歌、わたしは海辺に』『わたしは心に』などがある。
 日本の支持者らがそれらをまとめた作品集に『最後の溜息』『人類のために』『夜明け前の歌』などがある。日本語の小説として『提灯物語』がある。後年、中国で魯迅訳の『エロシェンコ童話集』なども出ている。その他、高杉一郎著『放浪の詩人エロシェンコ』(新潮社、1956年)、『エロシェンコ童話集』(偕成社、1993年)、『エロシェンコ全集』全3巻(みすず書房、1959年)がある。
 『ある孤独な魂』は上海にいたころエスペラント語で書かれている。モスクワ時代の盲学校を振り返って赤裸々な告白をしている。そこで同級生のラーピンとともに、帝政時代の横柄な教師の偏見と矛盾にみちた言動にいちいち異議を唱え、そのたびにお仕置きを食らう。しかし決してへこたれないところが痛快である。
 たとえばエロシェンコたちが2週間に一度の公衆浴場(蒸し風呂)へ連れていかれる途中、路傍の乞食から「1分間もすれば人間はよごれてしまうことがあるということを、きみたちは知っているかね」と禅問答のようなことを話しかけられて、それに律儀に返答をしたというので案の定鞭打たれる。そのとき彼らは「だって(数日前に盲学校を視察に訪れたモスクワ総督の)大公殿下だと思ったんです」と弁明する。すると教師の口から不思議な叫び声がしぼり出されて、鞭が床に落ちる。立派な勲章を飾った大公殿下の治める国が、実はシラミにたかられた「くらやみの国」であることに気づいたのであろう。
 「くらやみの世界がわたしになんでも、そしてだれでもうたがってみることを教えたということ(中略)をわたしはいっておかなければならない。(中略)わたしは神は善であるということも、悪魔は悪であるということも、どちらもうたがった。わたしはどんな政府もうたがったし、その政府に信頼を寄せているどんな社会もうたがった。
 しかし、ほかの盲人たちは、なにごともほんとうだとして、しずかにしていることをくらやみの国から学んだようである。(中略)なにものをもうたがわなかったわたしの友だちの大部分は、あるいは音楽家として、あるいは教師として、あるいはつとめ人として、ずっと以前から社会に一定の地位をえており、妻子にかこまれて安楽にくらしている。それなのにこのわたしはいまだになんの地位もなく、いっさいをうたがいながら国から国へと放浪している。あるのろわれた日に、わたしがあのくらやみの国の大公殿下のように、そうぞうしいどこかのくらい町角に立って、道いく人々にものごいの手をさしのべないだろうと、だれがいいうるだろうか」
 ここには、何ものにもよりかからぬ厳しい精神の自立が読みとれる。盲学校の教えにしたがっていれば、もっと楽な人生が送れたことだろうが、どうしてもそれを潔しとしないのである。そういう生き方は野たれ死にと紙一重である。そのため作品には無頼の孤独と哀愁をこめたものが多い。いったいエロシェンコは死ぬ間際に少しでも満ち足りた思いを味わったのであろうか?
 いやいや、ご心配には及ばない。教師や音楽家になった同級生たちが歴史の闇に消えていったのに比べて、エロシェンコはこうして何十年もたってから私たちの胸に鮮やかに甦(よみがえ)ってくるではないか。芸術家にとってそれほどの誉れはない。

(なかしまとらひこ 評論家)


(ある孤独な魂:『少年少女日本文学全集』、講談社、1977年)