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「自己選択」
―する能力がないのか するための支援がないのか―

戸枝陽基

 NPO法人ふわりでは、障害者雇用の助成金制度を活用し、喫茶店を運営している。その喫茶店には、地元の方をはじめ、多くの方が来店し、お陰様で、繁盛している。
 この喫茶店には、障害のある当事者の方が訪れることも多い。ある日、来店された知的障害のある当事者の方が僕に質問をしてきた。
 「僕は今まで、養護学校の先生からも、施設の人からも、障害があると汚い大変な仕事しか見つからないと言われてきました。そういうものかなと思って、毎日、仕事を我慢してやってきました。それなのに、この喫茶店の人たちは、僕と同じ障害者なのに、きれいな洋服を着て、きれいな喫茶店で働いています。僕は、だまされていたのでしょうか」
 話しを聞くと、確かに彼は、大変な仕事をしている。うちの喫茶店に来たばっかりに、仕事を辞めてしまっては困るので、彼の職場のほうがうちの喫茶店より、給料を多く払っていることなどを聞き出し、そこをよりどころに、頑張って行こうと励ました。
 彼は、なんとか納得。最後は、頑張ってお金を貯め、一人暮らしや結婚をしたいと夢を語り帰って行った。喫茶店を出ていく後ろ姿は、たくましくもあり、どこか寂しげだった。
 彼が帰った後、ひとりコーヒーをすすりながら考えた。「そうだよなぁ。選択肢をきちんと並べてもらってないよな」。知的障害という障害は、想像力を必要とする将来予測などが苦手だという特徴を持っている。そんな彼らにとって、職業を選ぶといった場合、それは、実際に、いろいろな職業を体験したり、目で見たりするということなのだと思う。そうであるとして、一体、どれほどの実体験を伴う選択肢を提示され、彼が、就職を選んだのだろうか。ため息がひとつ出た。
 今、新障害者プランの策定に向けて、いろいろな所で、さまざまな議論が出ている。それを聞いて思うのは、それぞれが自分の立場で一番都合のいいように当事者の意見を利用しているなということ。実体験を伴う選択肢。これを彼らに丁寧に提供せずに行う議論なんて、とても空虚だ。住む、働く、遊ぶ。それをどこで、どんな形で手にするのか。すべての当事者が実際に体験して、選択するための支援を作ることから始める必要があるように思う。選択肢が意図的に隠されたり、結論が誘導されている自己選択なんて、どうなんだろう。

(とえだひろもと NPO法人ふわり理事長)