音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

文学に見る障害者像

ジョン・ヴァーリイ著
『残像』

坂部明浩

 本書『残像』は1978年に書かれたSF短編集である。ここでは表題の「残像」を紹介したいと思う。
 SF作家としては、たとえば映画「ミレニアム―1000年紀」の原作者として知られていて、この映画ではお馴染みのタイムスリップによるパラドクスが、現在(未来)の我々に地震(「時震」と表していたところが憎かったが)として現れるというタイプの作品であった。
 本作はそうしたタイムパラドクスどころか時間の旅のようなモチーフは一切登場しない。
 これがSFかと思えるほど、なのだが、そこにまんまとやられてしまう作者の仕掛けがあるように思える。
 舞台は1990年代(執筆当時から見れば近未来)、シカゴから一人の中年男がカリフォルニアをめざして旅に出る。この主人公の男、さしたる目的も持っている様子もない。路上生活も厭わず、各種のコミューン、つまりは自分たちで自活しながら生活をしている共同体を渡り歩いている様子が最初に描かれる。
 そうしてたどり着いたのが「ケラー」という盲聾者のコミューンだった。
 1964年米国での風疹に端を発して、眼と耳の不自由な赤ん坊が5千人生まれた。大きくなるにつれ、施設に行く者、親と暮らす者、社会に適応を試みる者、精神病院に収容されてしまう者と別れていく中で、一人「夢想家で独創性があり、夢を見たらどうしても実現せずにはいられない」少女ジャネット・ライリーが思い立ったのがケラーであり、1986年、行政の反対に遭いながらも見事に総勢55名の盲聾の仲間たちと移住に成功する。
 ケラーはニューメキシコにあって5フィートの壁で囲われていた。主人公の男はなんなくその内側に入ることに成功するも、壁際に這っていた線路の上を機関車が突然、主人公めがけてやってきた。難を逃れると機関車から降りてきたのは盲聾者であった(90年頃に私は米国で廃線跡のレールの上をペダルで自由に移動できる4輪車を視覚障害者の楽しみとして開発した記事を読んだことがあるが、まさにそんな光景を思い出した)。
 彼は戻るなら今のうちと思いながらもケラーに引き込まれていく。ここでは裸足であること、それは一種の足で読む交通表示のためではないかという発見。会話は手で行われるということ。しかも、盲聾者だけではなくその子どもたちが「健常者」として同居していたということ。ボディータッチを基本とし、なかには衣服を着用していない者もいたこと。そうしたことをピンク(音声語にあえて訳すとしたらという意味でのピンクだが)という名の子どもから徐々に知らされていく。
 赤ん坊言葉のハンドトーク(国際手話アルファベットのようなものと解説があるが)で考えることがやっとできるようになってもなお、主人公には果たして自分はケラーの人たちから受け入れられているのだろうかという不安を隠しきれなかった。そうした中ではその間に立つピンクの存在が救いともなっていて、それが彼女との愛へと昇華するのも自然の成り行きだった。
 そうした最中に事件は起こった。主人公が畑に水を運ぶ仕事をしていた時のこと。ガシャーンという大きな音と共に女性が一人「地面に顔をつっこむようにして」倒れてしまう。コンクリートの急行歩道に主人公が何の気なしに置いてしまったバケツに彼女がつまずいたのだった。
 これはたちまち大問題となり、早速即席の会議が招集された。被害者の〈傷跡〉(と主人公が仮に名づけた女性)と陪審団たち。全体で何を話しているかは主人公には分からない。時折ピンクの声が絡む。審議の結果は有罪となり、主人公は刑に服するが、その刑のあり方はどこか温かいものが根底に流れていて救われる。それどころか被害者の〈傷跡〉との間に逆に淡い愛情が芽生えたりもする。
 それは不思議なことではあったが、ここではケラー全体が一つの生命体のようになっていて、愛情というものも狭義の愛情というものを超えたもの、それゆえ異性愛も同性愛も包括してしまえるような何者かであるということが読者にも徐々に知らされる。そういう中での刑罰だったのだ。敵対するものをも愛せたに違いないのだ。
 この辺のくだりは、日常の「事件」から壮大なビジョン(普遍的愛情)までを見事に繋げてSFに仕立て上げる作者の力量を感じさせられる場面である(『渡辺荘の宇宙人』を書いた福島智氏がSFという手法を盲聾者理解のための術としても使われているのも、SFの持つこのような可能性を信じてのことに違いない)。
 こうして事件は落着するも、まだコミュニケーションの壁はたちはだかっていた。ハンド・トークの取得の先には、ショートハンドとボディ・トークというものがあることを主人公は思い知らされる。ショートハンドは5か月でやっと4、5歳児童のレベルに達したが、ボディトークにはその究極にタッチというものがあって、それは夜ごと彼らのコミューンで創り上げられていった言語であり、「慣用句であろうと、人称であろうと、すべてがその正真な意味にまで完全に素っ裸にされる」言語であることという説明がなされていた。「さわらないさわり方なのよ」という禅問答にも似たピンクの説明と同時に、もはやそれは活字にも表しえぬものであると言わんばかりに、本の中の表記も「※※※」と伏字になっていく。それ、つまり「※※※」はマリファナを吸った時みたいに、笑い続けることで行われることもあったし、「彼女のなかにあった※※※に対するなにかが、私に暗示をあたえ」などという主人公にも読者にも意味不明の表現にも化けていった。ピンクですら※※※することはできなかったのだ。
 ことここに至って主人公は、「わたしの人生の目的は、本当に、盲聾者とのコミューンの一員になることだったのだろうか」と改めて自問自答してしまう。ここは特殊な場所ではないか? いやちがう、みんなを受け入れてくれる場所だ。しかし、一瞬たりとも特殊な場所と思ってしまった自分を自分は許せるのか? ざっとそんな自問自答の中で、彼はケラーを去る決心をする。
 この後、ケラーを抜け出した主人公は世紀末を迎えた米国でピンクのことを想う。そして…。
 再度ケラーに戻っていくのだ。理由については特に明記されていない。ケラーに戻ってそこに見たものは、読者の想像にお任せしたい。いや、※※※なのである。そう、彼らは※※※と共に姿を消したのだった…。
 果たしてそれは彼らのコミュニケーションの完成だったのか、失敗だったのか分からない。分からないが、一つだけ言えることは、一つの共同体なりコミューンというものにおいてコミュニケーションというものが重要な存在であるという事実であろう。
 私はこの本を読んで、1991年から2年間、男女8人(科学者)が完全自給自足システムの中で暮らした「バイオスフェア2」(地球に次ぐ2番目の生命圏という意味が込められていた)というアリゾナでの実験を思い出した。約1,500平方メートルのガラス状のドームの中での、水や食料、空気さえもリサイクルしながら外部から一切補給なしの自給自足の生活の実験であった。
 その実験を終えて来日した科学者の一人が、何が一番困ったことか、と質問を受けた時に、いの一番に彼女が答えたのは、大方の予想に反して意外にもケンカを含めたコミュニケーションの軋轢(あつれき)だったというものであった。
 現代はケラーのようなコミューンを必要とせずとも壁の外で多様性の中で人々が生きていく時代であると思う。ただ、現代のそれはここで見たようなコミューンの失敗の結果だったのか成功の結果だったのか、それゆえの発展解消なのか、あるいはここで見てきたようなコミューンとは別の回路を経て現在があるのか。そういうことを考えさせられてしまう。それゆえSFは常に現代というものを「可能性」の選択という見方に変えてくれる道具のように思えてならない。

(さかべあきひろ 著述家)