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国連ESCAP専門家会合の
成果と今後の見通し

小川秀俊

■「バンコク草案」のあらまし

 10月14~17日、タイ・バンコクの国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)本部にて「障害者権利条約に関するESCAP地域ワークショップ(専門家会合)」が開催された。同会合には外務省の担当部局(国際社会協力部人権人道課)や在タイ大使館からも参加し、政府の立場から議論に参画したが、特筆されるべきは各国障害者団体を中心とするNGOの方々の障害者権利条約策定に向けた並々ならぬ熱意であった。今回の専門家会合は、こうした関係者の尽力により、来年以降交渉が本格化する本条約の一つの形を、具体的な条約草案という形(以下「バンコク草案」と称する)でまとめあげた。以下本稿では、この「バンコク草案」の梗概と位置づけ、今後の条約交渉の展望等について概観することにしたい。

 バンコク草案の概要は別途掲載される資料等をご参照いただくことにして、本稿ではその特徴につき簡単に紹介する。同草案は、前回の障害者権利条約に関するESCAP専門家会合・セミナー(6月)にて採択されたバンコク勧告の精神に基づき、2つの国際人権規約、女子差別撤廃条約、児童の権利条約といった既存の主要国際人権条約の規定等を参考にしながら作成されたものであり、前文及び6部からなる。これらは、障害者の権利の増進・擁護の観点から必要と考えられる条項に力点を置きつつも、市民的・政治的権利(第2部)、経済・社会・文化的権利(第3部)を共に含む包括的な権利カタログを有している。また、実施措置(第5部)に主要人権条約に規定される実施メカニズムの多く(条約機関[委員会]の設置、政府報告の定期的提出義務と審査、個人通報制度、調査制度)を取り入れた野心的なものとなっている。
 全体として、同草案は包括性を特徴とし新たな定義付けや権利概念を含めつつも、原則的にこれまでの人権諸条約で読み込めないような全く新たな権利を創設するものではなく、障害者の権利との視点から内容の明確化とその効果的担保を図ることに主眼を置いていると言えよう。明年の国連本部での会合に先立ち、アジアの専門家がこのような具体的条約案を提示したことは、後述するさまざまなチャレンジはあれ、今後の議論をより豊かにしていくうえで大変有意義な貢献となると思われる。

■今後のスケジュール

 本誌8月号特集のとおり、去る6月ニューヨークで開催された第2回障害者権利条約起草特別委員会会合において、「障害者権利条約を作成する」という大方針につき各国代表等の合意がなされたところである。これを受け、正式な条約策定交渉は明年初夏頃に予定される同第3回特別委員会会合から始まる予定になっている。
 もっとも、さまざまな政治・社会制度の、異なった経済発展段階にある極めて多様な国々が広く受け入れ可能な一つの草案を形作っていくことは容易ならざる作業と予想される。また、後述するように国際法規範として各国を法的に拘束するものであるからこそ、多くの国にとって受入可能なものとするために慎重で粘り強い検討と交渉を続けていく必要がある。「難事は細部に宿る」という格言もあるが、各条文の具体的規定が実際に障害者の権利を増進し保護する根拠となるよう、多様な世界における各国の実態を念頭に置きつつ細密に作り上げていかなければならない。
 第2回特別委員会会合においてもこのような問題意識から、来夏の次回会合に先立ち、より小振りのグループによる条約草案起草作業部会において十分議論を行うことが合意された。この作業部会は、来年1月早々にニューヨークで開催される予定であり、日本もそのメンバーとなっている。この場で各国政府やNGO、地域機構等から提出されたさまざまな提案や意見を参考にしながら、障害者権利条約案のたたき台を作成することが期待されている。今回のESCAP専門家会合で作成された「バンコク草案」も、アジア太平洋地域の専門家のそのような意見の一つとして提出され(注:専門家会合の成果であり、アジア太平洋諸国の政府間合意との位置づけではないとの趣旨)、参照文書の一つとなる予定となっている。
 なお、11月4~7日、ESCAPと中国障害者団体の共催により「地域間セミナー」が北京にて開催された。北京セミナーにおいては、NGO等専門家により作成された「バンコク草案」に対する政府としての評価につき議論し(ただし「バンコク草案」を承認したり変更したりするものではなく、議論の素材として用いられた)、終了後「北京宣言」を採択した。その場での議論や北京宣言も併せて来年1月の条約草案起草作業部会に提出されよう。また、ESCAP以外の他の国連地域委員会や、各国政府が独自に意見をまとめた文書あるいは条約草案を提出する動きもあり、実質的な条約交渉の序章となる同作業部会での議論は、個別の論点を巡り百家争鳴となる予兆も漂いつつある。

■今後の交渉の方向性(理念と現実)

 では、こうした障害者権利条約の今後の交渉にあたり、いかなる点に留意して取り組んでいくべきか。紙幅の都合もあり個別の論点は割愛せざるを得ないが、一般的性格については次のようなことを指摘しえよう。
 障害者権利条約は、これまでの主要国際人権条約の理念・内容を受け継ぎ、これと整合性を保ち一体をなしつつも、障害者の権利の増進と擁護を達成していくため権利に基づくアプローチに立った、普遍的価値のある、効果的なものとしていく必要がある。すなわち、生命の価値や享受する人権に軽重が無いことといった基本的理念から、障害者の方々が現在置かれている状況を、一歩一歩なりとも実効的に改善していくことに資するものたりうる社会的権利まで広く射程に収めているべきである。その意味で、障害者の権利の観点から重要なものは、自由権的権利たるか社会権的権利たるかを問わず、原則として本条約に適当な形で包摂されていくべきである。
 その一方で、条約という締約国に法的義務を負わせるものであるが故に、具体的内容は慎重・細心に吟味する必要がある。これは何も後ろ向きの発想から出ずるものでは決してない。一例として、バリアフリー化という極めて重要な政策課題を取り上げてみよう。これはわが国の障害者基本計画(2002年)においても横断的な基本方針としてその最初に位置づけられており、また何処(いずこ)の国であれだれしもその意義たるや否定できないであろう。しかし、その完全な達成には多額の費用を要することから、仮にそれを即時に無限定で義務づけるような規定が置かれた場合、富裕な先進国ですら対応が困難となってしまう。さらに、途上国においては、たとえば飢餓や絶対貧困への対応等との関係で、政策上の優先付けをどのように行っていくべきかは一律に即断できる問題ではないであろう。従って特にこの種の施策の実現に関しては、障害者の権利の増進と擁護の原則に照らして許容される限り、各国それぞれの法制度及び経済・社会的事情の違い等を斟酌(しんしゃく)した適度の柔軟性をもたせることが不可欠である。現下地球上に世界政府がある訳ではなく、通常、ある条約の内容を自国に適用される法として受け入れるかどうかは当該国の意思決定によっているので、一般的にそのような配慮があってこそ、条約が国際社会で幅広く締結(批准等)され、実施されていくものとなり得る。
 本条約を作り上げていくにあたり、さまざまな課題はあれ、高邁(こうまい)な理念を高らかに掲げ、障害者の権利の増進・擁護を図り、国際人権法をも徐々に発展させていく意識を持ち続けていく必要がある。同時に、政治的実態、特に法的現実からあまりにも遊離した理想主義的な内容に傾き過ぎる場合、条約が多くの国に受け入れられず、実効性が低下してしまう危険性があることにも注意せねばならない。
 条約草案起草作業部会のメンバーともなっている日本政府としては、このような理念と現実のバランスを見据えながら、障害者権利条約が何よりも各国の障害者の方々にとり有意義なものとして結実するよう、NGOの方々と手を携えつつ関係者が一丸となって、これを大事に育てていきたいと考えている。

(おがわひでとし 外務省国際社会協力部人権人道課)