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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年7月号

1000字提言

先入観が見えなくしているもの

澁谷智子

去年の春、『聞こえない親をもつ聞こえる子どもたち』という本を、日本語に翻訳して出版した。自らも聞こえない親をもつ著者が、聞こえない親をもつ150人にインタビューしてまとめた本である。日本では今までこうした人々の存在に注意があまり向けられていなかったこともあり、この日本語版に対してはそれなりの反響があった。

ところがである。本を読んだという人の感想をいくつか聞いて、私はあることに気がついた。どうやら、聞こえない人と直接関わることが少ない一般の人には、「聞こえない親をもつ人々はこんなにも苦労しているんだ」という印象ばかりが強く残るようなのである。著者は、それまで「傷ついた親鳥に育てられる傷ついた雛」という視点で捉える研究が多かったことを踏まえ、聞こえない親と聞こえる子の関係の豊かさも意識して書いているのだが、私に感想を語ってくれる人々の言葉には、しばしばその部分が抜け落ちていた。

もちろん、家族の中で聞こえる/聞こえないの違いに日々接して生きることの大変さはあるわけで、それは嘘ではない。ただ、それは、普通の家族としての営みがある中に出てくるものであって、苦労話だけをつなげた先にイメージされる「大変な家族」というのは、かなり歪んだ像になっているように思う。

私は以前、アメリカに留学していた際に、日本の社会や文化を紹介する現地のビデオを見たが、その時に抱いたのが似たような感覚だった。なにしろ、ラジオ体操する人々の映像が流れて「日本人は集団生活を好む」というナレーションがついたり、日本人がおじぎをする角度が細かく説明されたりするのである。確かに、これらは日本社会の断片なのかもしれないが、その部分だけを並べて日本の全体イメージを作られたのではたまらないと思った。

今、障害を扱ったドラマが数多く放送されているが、障害というと、とかくそこに苦労や感動を読み込みたがる風潮が強い。しかし、聞こえない親をもつ人々が、「かわいそうに」と言われて嫌な思いをしたり、自分の家族を肯定的に思えなかったりするのは、むしろ、こうした多数派の一面的な見方によるところも大きい気がする。障害のない側が「障害=苦労」という色めがねをかけて障害者やその家族の話を聞いた場合、その見方にあてはまるところだけが選択されて記憶に残ってしまう点は、もう少し自覚しておきたいものだと思う。

(しぶやともこ 東京大学大学院)