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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年8月号

統合論をどう考えるか

介護保険見直しと障害者福祉

浅野史郎

介護保険の見直しが行われている。その中で、障害者への介護を介護保険に包含するという改正が俎上に乗せられている。私は、その方向での改正に賛成の立場で、さまざまな場で発言し、行動してきた。

理由はいくつかある。まずは、論理的、方法論的な観点から。介護保険の対象を65歳で画然と切ることのおかしさがある。障害のために介護が必要な人が、64歳までは支援費制度の対象になっている。65歳になった途端に介護保険の対象に切り替わる。制度の割り切りの問題であるから、絶対におかしいとは言えないが、不自然ではある。現実的な理由は、財政的なものである。支援費制度は始まった早々に、「財源が足らない」ということで、サービスの量的・質的な制限が提案され、それに対して障害者団体が反発するという図式を何度も繰り返している。問題は、そういったことが、これからもなくなる見込みがないことである。つまり、支援費という、税金を財源にして運営する制度の限界が露呈している。

単に、財源確保の方策のことだけを言っているのではない。「ゲームのルール」が確立していないことも問題である。障害者のほうは、サービス内容を充実せよと主張する。制度運営側は、財源がないから無理だと対応する。財源がないなら、政府予算の中で他の費目を削れ、増税せよという主張をすることは、できないことではない。しかし、現実的ではない。

介護保険制度の範疇での議論にすれば、財源がないなら介護保険料を上げよという主張になる。上げられないというのは、被保険者の理解が得られないから。だったら、理解を得るべく説得をする、運動をする。これが、私の言う「ゲームのルール」である。どちらが合理的なゲームとなるか。

思想性ということからも一言。2000年に介護保険が始まって、老人介護の問題が、他人ごとから自分ごとに変わった。それまで、税金のみで運営される老人介護施策においては、対象となる老人のほうには、「福祉のお世話になる」といった感覚の「面目なさ」が色濃く残っていた。介護保険では、「恩恵から権利へ」で表されるように、「面目なさ」は払拭された。それと同時に、保険料を払っているほうには、「明日は我が身」という認識が急速に広まった。つまり、老人介護が「自分ごと」になったということ。このことは、「連帯」と表現すべき事象である。

わが国の歴史において、障害者問題は、ついぞ「自分ごと」になったことはない。今般、障害者介護を介護保険に取り込むということは、障害者介護など自分とは金輪際関係ないと信じている国民一般に対して「障害者介護に備えての保険料を払いなさい」と迫ることである。そういった外的要因から、逆に、障害者問題への連帯感を引き出すという図式が描き出せる。

もう一つ忘れてならないのは、障害者を介護保険に取り込むといったときに、一緒に精神障害者を制度対象にしてしまうということである。精神障害者は、福祉の場に、最も遅れてやってきた一群と言われている。遅れているわが国の福祉施策の中でも、精神障害者に関わるものは、さらに遅れている。現に、支援費制度発足の際にも、精神障害者は対象からはずされたではないか。今回の介護保険の見直しにおいては、精神障害者の介護も、他の障害者並みに引き上げることが、大きな目玉になるはずである。

この他に、介護保険は、障害者の在宅支援を強化するためには有効な施策であるということも挙げるべきかもしれない。これは支援費制度がめざすものと同じであるので、介護保険でなければ実現できないというものではない。ただ、現行の支援費制度では、在宅支援は「裁量的経費」として、施設支援の「義務的経費」と差別された扱いになっているために、常に、在宅支援の施策は削減の圧力にさらされているという現実がある。そのことを考え合わせれば、やはり、介護保険の対象にしたほうがいいと言えるかもしれない。

障害者への支援策を、すべて介護保険で肩代わりさせるということにはならない。老人介護と同様の範疇には入れ難いサービスが、障害者にとっては引き続き必要とされる。その部分は、税金で賄われる施策として残していかなければならない。つまりは、介護保険では介護そのもの、それ以外のサービスは支援費のような制度でという、二本建ての仕組みにしていく必要はある。そういった制度設計を念頭においたうえでの介護保険への取り込みであることを、明確にしておきたい。

議論は尽くすべきである。いい加減でお茶を濁してはならない。その一方において、千載一遇のこの機運も逃してはならない。「ゆっくり急げ」という状況ではないか。

(あさのしろう 宮城県知事)