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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年4月号

期待すること ~当事者・家族・支援者の声~

どこが問題なの?

脳外傷友の会・コロポックル会員
舛沢麗奈(ますざわれな)

私は交通事故で脳にダメージを受けたため、以前の自分でいられなくなった。高校の勉強はわけのわからない文字の羅列にしか見えなかった。目の前で話している人の声が周りの雑音と一緒に入ってきて、何を言っているのか口パクで話し掛けられているようだった。

無意識にできていたことが、一つずつ区切り、神経を集中させてないと何一つできなくなった。文字も一文字の形を思い出して書かねばならない。外出も目的地に着くまで神経を集中させていなければ、ふっと気を抜いた途端にすべてが記憶から抜け落ちてしまうのだ。事故で手にしたものは、急激な学力低下、体力低下、中途障害者というラベルだ。しかし、外見上はどこにも、問題がない。元気で活発な若者に見える。話の受け答えもきちんとできる。「どこが問題なの?」――時間は無情に過ぎていく。私はちゃんと生きたい! 私の障害を否定しないで、生きられる社会を行政に実現してもらいたい。


一人暮らし

脳外傷友の会・ナナ会員(横浜市)
中沢裕介(なかざわゆうすけ)

交通事故後20年が経つ。3か月間の意識不明から奇跡的に蘇り、身体障害1級の手帳保持者である。記憶障害などの高次脳機能障害は自分では軽度と思っているが、他者からはそこが問題であると言われる。

昨年、横浜市に初めてできた高次脳機能障害者の作業所に通所できるようになった。また、3年前から一人暮らしをするようになったが、冷蔵庫の中はいつもカップラーメンのねぎだけという食生活であった。支援費制度のおかげで、ヘルパーさんが来てくれるようになり、食事の支度と掃除、ごみ出しなどの家事援助を頼むことができるようになり、大いに助かった。体温調節ができない後遺症の影響で体調を崩しやすいので、寝込んでしまうこともある。そのような時には、緊急に身体介護のヘルパーを頼みたいのだが、今の制度では不可能だ。1割の自己負担が取られるのは、経済的にも不安だが、「必要な人に必要な支援を」という柔軟な支援体制の確立を期待している。


生きている

脳外傷友の会・高志(富山)
吉久康彦(よしひさやすひこ)

1991年交通事故で受傷。身障3級 在宅。

「擦り傷の 痛みに届く 日の影に 疼くようなる 夏のスランプ」

これは、富山県短歌大会で、佳作を授賞した作品ですが、心情的にはもっとも自分の症状を意識した作です。「脳外傷」を「擦り傷」として見なすことしかできなかった頃です。「脳外傷受傷者」としての自覚に目覚めたのは、ずいぶん後になってからです。

自分を自分として意識することもできなかった頃です。数度の就労挑戦にも失敗し、「ふてくされ 缶入りコーヒー 飲み干して、投げ入る籠に 入れたき吾が身」一時期こんな短歌もこしらえていました。脳外傷後遺症者として、何にも望みをもてないでいた頃です。そんなふうに、僕は「障害者人生」を短歌に刻み込んでいます。

今では、そんな生活に「潤い」も「生きがい」も感じています。現在、新聞に88首、雑誌に21首掲載されるに至っています。暇なのが証明されて、情けないのですが、誇りでもあります。お金に化けるのはごく稀なので…。「生きているのだ!」と証明したいだけなんです。


失った人生設計

脳外傷友の会・イーハトーブ(岩手)代表
堀間幸子(ほりまさちこ)

平成13年、長男が交通事故に遭いました。医療機器メーカーに勤務し営業マンとして働き始め、私も親として肩の荷をおろし始めていた頃でした。

数度の手術で生死の境をさまよいながら、3か月後に意識が戻りました。喜びもつかの間、重い障害が残りました。現在、身体障害者手帳2級を取得していますが、問題は記憶の障害と言語障害です。1日に何回も同じ質問をしたり、戸の開閉にこだわり、家中に「閉める」と書いた張り紙をします。些細なことに腹をたて、感情を爆発させます。

どのように対処すればいいのか、どこに相談すればいいのか、親亡き後は? を考えると、眠れぬ日々が続きました。現在週に5日間はパソコン教室に通い、通院、訪問リハビリ、訪問介護を、1回ずつ受けていますが、通院と訪問リハ以外はすべて、自費負担です。

しかし、通う所があることはとてもありがたいです。本人にとって、教室は職場のつもりらしく、絶対遅刻は許せず、私が送迎の車を出すのが遅れたら大変なことになります。

今朝、車中で突然こんな事を言いました。

「俺、大変なことに気付いた。30歳で父親になる予定だったのに、間に合わないな…」


高次脳機能障害支援モデル事業に思うこと

高次脳機能障害者と家族の会
太田三枝子(おおたみえこ)

家族に障害をもつ者がいない時には全く考えたこともなかったが、障害者にとって日本はとても住みにくい社会である。「見えない、分かりにくい障害」として福祉施策に入らず、長年高次脳機能障害者や家族は苦しんできた。

ようやく高次脳機能障害という言葉が世に出始め、厚生労働省の支援モデル事業3年間で支援方法が検討され、平成16、17年においては、地域での支援体制が考えられるという。医療機関のみの理解にとどまることなく、地域に戻って社会生活が始まり、問題が表面化したときに直接関係してくる福祉の現場での理解が進んでいかなければならない。これからどのような福祉施策として展開されていくか期待している。

モデル事業の終了と障害者自立支援法の実施が平成18年からスタートする。高次脳機能障害の当事者は年齢も障害の程度もさまざまである。ここにきて就労支援に重点が置かれているように思うが、就労に繋がっていかない高次脳機能障害者も大勢いる。地域での「居場所」があれば救われる人たちもたくさんいるのである。この5年間の成果が全国の高次脳機能障害者に行き渡るよう、再び施策の谷間にこぼれてしまう人のないように願っている。


人らしく生きるために願うこと

高次脳機能障害を考えるサークルエコー
塚下枝利花(つかしたえりか)

低酸素脳症後の障害、わが家のケースは言語での疎通が全くできない重度障害者である。大声をあげ感情をむき出すことがあり、集団生活が成り立たない原因の大きな一つとされてきた。しかし、大声も意志表示=言葉の代わりと理解してくださった施設との出会いにより、人らしい生活を取り戻し、今ではたくさんの笑顔も見られる。

他のショートステイ施設を利用する当会のメンバーの中にも発語がなく奇声をあげる人がいて、個室で過ごすことを大半とされている。施設からは、利用時の2年間1度も笑顔を見たことがないと言われている。けれど、その方が家庭やその他の施設ではたくさんの笑顔を見せる。うれしい時、楽しい時、彼らは笑う。不安な時は声をあげ、訴える。今、感じたことがだれよりも大きく表現される。

高次脳機能障害者の中には就労をゴールとしていない者もいる。常に見守りが必要な彼らと閉鎖的な毎日を余儀なくされている者もいる。しかし、家庭に近い小規模な場と適切な対応があれば彼らは早い時期に穏やかさを取り戻し、人らしく生きていけるのである。ぜひ、小規模ホームなどの試行的実施を行い、早期に制度化してほしい。


モデル事業の実施を通して感じる支援者のあり方

社会福祉法人旭川荘
後藤祐之(ごとうひろゆき)

高次脳機能障害モデル事業は開始から5年を迎え、各地でさまざまな取り組みが行われていますが、今後の課題のひとつは支援者の数をいかに増やしていくか、ではないかと考えています。高次脳機能障害という言葉は何かとても寄りつきがたくて難しい印象を与えます。本を開けばこの分野に特有の専門用語がたくさん並んでいます。そのためもあってか、高次脳機能障害者の支援にはしり込みをしてしまう機関や支援者が多いのではないでしょうか。モデル事業は診断基準の整備や標準的訓練プログラムの作成などの成果を残してきましたが、今後は深める仕事から広げる仕事に重点を置くことが求められるのではないでしょうか。そのためには、支援者がだれにでも分かりやすい言葉で市町村や関係機関に協力を呼びかけていくことが必要であり、「垣根を下げる」ことを心掛けていかなければなりません。

また、隣接領域と支援手法の共通性を見出すことも大切です。共通の部分が多いほど、支援者の数が拡大することが期待できます。自閉症児・者や精神障害者への支援と共通する部分はかなりあるのではないかと私は考えています。障害種別ごとのサービスから障害種別を超えての一元化へという政策の方向性も視野に入れ、支援者同士が共通の言葉をたくさん作り出すことができた時こそ、高次脳機能障害者への支援が障害者サービスの中でしっかりと根付く時ではないかと思われます。