音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年12月号

1000字提言

地域の人々に支えられて

広田和子

1988年3月1日。私は通院先の神奈川県立芹光病院で、インフォームドコンセントのない1本の注射を打たれた。当時の私は長年のニート状態から脱却して短期のアルバイトを始めたばかり。しばらくして会社の昼休みに食事をすると歩いていた。自分の心は座っていたいのに、じっとしていられなくなっていたのだ。病院に行って主治医に話したが、「分かりません」と言われた。その頃、上司から「あなたのように明るい人柄だったら営業が向いていますので、アルバイトが終わってもやめないでください」と言われたが、落ち着くことができず、仕事どころではなくなり退社した。

ある日、病院の廊下を歩いているところに主治医が通りかかり、「あなたの言っていた事はこの事ですか」と言った。「そうです」と答えると、「これは注射の副作用です。副作用止めを打ちますから」と言って打たれたが、何の効果もなかった。この状態がアカシジア(着座不能)という副作用だと知ったのは、後年のことだが、アカシジアはますますひどくなって、1日20時間以上歩き続けるようになり、ご飯を食べても何を飲んでも鉛のような味がする幻味を体験し、視力は0.1から0.01にまで下がってしまい、よだれも流していた。

私はこの病院を信頼できないので、「横浜市大に転院したい。紹介状を書いてください」と言った。主治医は「今のあなたのこの状態は、どこへ行ってもだれが診ても手の施しようはありません。私のミスでした。私に任せていただきたい。緊急入院してください」と言った。私は絶望的な気持ちで入院したが、そこは鍵と鉄格子のある閉鎖病棟だった。そこで薬の調整をして、平均8時間ぐらい横になれるようになり、入院から29日目に退院。医師の都合による退院だった。

7月1日から1年間作業所に通所した。そして、1989年7月から93年3月25日に交通事故に遭うまで、3か所の民間企業でパートタイムとして働いた。いずれの会社でも精神障害者としてカミングアウトして就職したら先輩から相談などを受けた。交通事故の治療を終えると、会社に戻らず89年に入会した患者会の事務局の仕事に専念。講演などが増えたことにより、自宅へ相談に来る人が増えた。

現在も薬を飲んでも音がすれば眠れないバリアをカバーするため、横浜市精神障害者住み替え住宅制度を利用して大きな一軒家に一人暮らし。この「駆け込み寺」に昨年は「オウムに殺される」と強迫観念にかられた高齢者が6か月滞在した。一昨年は16歳の家出少年が逃げ込んできた。こうした私の危機介入の活動は、「六ツ川交番」のおまわりさんをはじめとした地域の人々に支えられている。

(ひろたかずこ 精神医療サバイバー)