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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年2月号

障害者自立支援法をめぐって

施行直前に思うこと、懸念すること、望むこと
療育に応益負担は、ありえないはず…

前野美智代

昨年(2005年)12月5日午前10時、国会議員会館での厚生労働省との交渉。

障害者自立支援法に関する質問を行った。児童デイサービス(通園事業)に対する回答に、憤りを感じた(児童デイサービスとは、0歳から就学前までの障害のある子どもの発達を支える場である。障害や発達の違いにより、1日から毎日通園と分けられている。現在、たくさんの子どもたちやその保護者を支えている)。

なぜならば、『子どもの発達を支える場』である療育の場を「預かりサービス」という言葉で表現する。そして、二言めには、「市町村の裁量で」と言う担当者。子どもの育ちを支えるのは、大人の責務。そして、安心して子どもを育てることのできる社会を保障することは、国の責任ではないのだろうか。それを、放棄するとも思える発言に、悔しさが先にたった。

離島や過疎地を多く抱える鹿児島。ただでさえ、市町村格差の大きい状態が続いているのに、さらに「市町村の裁量」となったら、子どもの育ちを保障する場は、なくなってしまう危険性がある。それだけ、小さなまちの財政は、厳しい。そして、最も危惧するのは「預かりサービス」の表現しかできない大人の机上操作によって、障害のある子どもの育ちを支える場の単価・利用料が決められていくということ。それは、「保育園・幼稚園」と同じ感覚で、「療育」の意味すら知らない大人が、子どもの可能性をつぶしてしまいかねないことにつながる。それだけに、私たちは、単価・利用料の設定には、こだわった。

応益(定率)負担は、保護者の精神的負担に加え、経済的負担をも大きくする。若年層保護者が多く、療育へ通園するために母親が仕事に就けない現状を考えると、「負担を分かち合う」という考え方には納得できない。そして、「市町村の裁量」というあいまいな表現を「国として責任を持ち、どのように支えるか」として明確に答えてほしかった。しかし、返事は、あいまいな表現で繰り返されるだけ…。

「療育って何ですか。どういうことですか」の質問に対して、「子どもさんを育み、育てること」と答えた厚生労働省担当者。それが、口先だけでないことを願う。行動に示してほしい。子どもは、障害があろうとも宝である。すべての子どもにも未来があることをわかってほしい。子どもたちの可能性を決してつぶしてはならない。

(まえのみちよ 鹿児島障害児者父母の会)