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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年2月号

障害こと始め

碍にこだわる

白石清春

私は原稿などの文章を書くときには「障害者」でなく「障碍者」を使う。「障碍者」は、1980年代半ばから自立連(全国障碍者自立生活確立連絡会)という団体で使い始めたのである。私は当時、神奈川の相模原市に住み、脳性まひ者が地域で生きる会という団体を組織していて、自立連に加盟していた。

1989年、私は、生まれ故郷である福島県郡山市に戻り、むかし障碍者運動を共に行っていた仲間たちと活動を再開していく。郡山の地でも、私は「障碍者」を使っていたのだが、その行為に郡山市社会福祉協議会の職員が興味を示し始め、社協での印刷物に「障がい者」と、害の字をひらがなにして使うようになる。そして、「障がい者」を使う風潮が広がりをみせていき、一昨年からは福島県の行政出版物に「障がい者」を使うようになっていく。県の行政出版物に「障がい者」が使われるのは、全国都道府県の中で福島県が初めてのことだそうだ。

障害者を直訳すれば、「差し障りがあって害となる者」となり、まるで障碍をもつ者が「悪い」というようなイメージを受ける。公害、薬害、害虫など、害はよくないイメージの漢字である。

一方、障碍者を使うとどうなるか。碍は電柱などに取り付けられている、電気を遮断する白い瀬戸物の碍子の碍である。遮断しているという意味を、壁があって通り抜けることができないと読み替えてもよいのではないだろうか。障碍者は、建物や道路などの環境、交通機関、情報、意識の壁(社会的障壁=碍)があるために、社会での生活に差し障りがある者、というようになる。障碍者を使ったほうが断然よいイメージを持つ。

ただし、碍は当用漢字の中には入っていない。だから、郡山市社協でも、福島県でも「障碍者」を使うことができず、「障がい者」を使っているのである。当用漢字の中に「碍」という漢字を入れれば、問題はすぐに解決できると思うのだが、皆さんはどう思うか?

ちなみに、文豪であった夏目漱石が小説の中で「障碍」を使っている。本当は、障碍者や健常者などと区別することのない社会であればよいのだが。

(しらいしきよはる NPO法人あいえるの会理事長)