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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年3月号

1000字提言

常識からの脱却

武田元

本年4月から障害者自立支援法の応益負担が実施されます。現場からは悲鳴にも似た悲痛な叫び声が聞こえてきます。障害者自立支援法は、実は障害者の自立を妨げる法律だという巷の声が現実味を帯びてきました。

確かに、サービスを受けたらその対価を支払うのは当然です。保健福祉の分野でも、健康保険然り、老人福祉然り、1部負担は世の多くの人にとっては当然のことでしょう。常識かもしれません。しかし常識はいつも正しいとは限りません。時として少数派を深刻な状況に追い込むことがあります。それは常識が多数派の最大公約数だからです。多数派が間違いを起こした例は歴史上たくさんあります。

障害の原因は何なのでしょうか。個別にはいろいろ考えられるとしても、社会全体として見れば、ほとんど一定割合で障害児は生まれてきます。人類がどんなに努力したとしても、だれかは必ず障害をもって生まれなければなりません。いわばその世代を代表したということになります。本人が望んだわけでもなく人類の宿命として障害をもったということでしょう。決して個人の問題ではありません。ましてや個人の責任では決してありません。

しかも、障害をもつ人がいることによって、世の中は確実に変わってきました。障害者が住みやすい社会はすべての人にとって住みやすいからです。障害者が住み良い社会のバロメーターになってくれていることだけは確かです。障害福祉のサービスはどんなに手厚くとも、それはごく普通の暮らしを実現するために必要な最低限のものです。決して益と呼べるようなものではありません。もしだれかが負担しなければならないとしたら、それは社会全体が負担すべきものです。

障害者は長い間、世の常識に苦しめられてきました。常識の根底にあるもの、それは次の図式です。「障害が重い」→「仕事は困難」→「収入が低くて当然」→「当たり前の生活ができなくても当然」

障害者施設で仕事をしている多くの障害者が低賃金のため苦しんでいます。所得の低さが日常の暮らしにもろに反映しているからです。障害が重くなれば、障害が無い人と比べて、仕事は困難になります。これは当然です。問題なのは、そのことがすぐ収入の低さにつながることです。困難さを克服する知恵を私たちは持ち合わせていないかのように。

私たちが地域で生活する場合、普通は常識に従っていることが安定と安心の日常につながります。しかし、障害が重いと、今の常識の世界では当たり前の暮らしを実現することは困難です。だとすれば、常識から脱却する以外ありません。それくらいの知恵を私たちは持ち合わせていると思うのですが。

(たけだはじめ 知的障害者通所授産施設蔵王すずしろ・施設長)