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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年4月号

精神障害者の就労支援の取り組み

天野聖子

1 共同作業所から通所授産施設へ

1987年、当時精神病院の職員だった私たちは、長期入院者の地域生活を支えるために自分たちの住む国立市に共同作業所を設立しました。単純な作業の繰り返しをする場ではなく、生活力を身につける生活体験の場として作業所を位置づけました。その後、多摩地域の入り口である立川に2つの作業所を作り、リサイクルショップやレストランを運営、ほかにもコンサートや講演会など多くのイベントを企画してきました。10年の活動で作業所は完全な再発防止の場として機能すること、メンバーが確実に元気になることが分かりました。この過程で私たち自身がメンバーからエネルギーを貰い、その先の活動を前向きに展開できるようになりました。

しかし、作業所の持つ安全な場所という機能は、再発防止という面では確実な役割を担いますが、長年緩やかなプログラムを続けていると利用者・職員とも、そこに安住するという弊害も持ち合わせています。さらに卒業がないため新しい人たちを受け入れることができず、精神病院からの受け皿としての機能も持てなくなりました。一方、病院から地域に出て10年、再発はせずに地域で暮らしていくことができるようになれば、次の希望はやはり働くことで、利用者の就労希望は高まっていきました。

1995年の雇用促進法改正後、精神障害者の相談員として、職員が交代でハローワークに行ったことで大きな転機を迎えました。私たちは職場さえ確保できれば障害者も働けると思い込んでいたのですが、企業が要求するのは、採用後きちんと働けるかどうかということだったのです。職場というストレスの高い場面に入った時、仕事をする力量も低くストレス耐性のないままだったら、長続きするはずはありません。福祉側の観点でしか考えていなかった私たちが、主体への変化を促さなければ職場で働けるようにはならないという労働側の視点を取り入れたことで、就労支援の方向が分かってきました。

2 授産施設と就労支援(ピアスの実践)

1997年私たちは、作業所活動の限界突破のために、次の点を確認して、就労支援に特化した通所授産施設ピアスを立ち上げました。

  1. 4つ目の大きい作業所にはしない
  2. 完全通過型のトレーニングの場所にする
  3. 働きたいという意思がある人を対象にする

そうは言っても、最初の1年は授産事業である弁当や喫茶店を軌道に乗せるのに必死で、就労支援には手がつけられない状態でした。そのうちここで働きたいという利用者の希望が続出、このままで行くと、職場が見つかった人は卒業し、そうでない人たちはそのまま残るという、今までと同じ構造が出来上がってしまいそうになりました。

1.利用期限をどうするか

本格的な就労支援の実際を知るために、2年目に若手職員がロサンゼルスのコナードハウスに実習に行き、そこで(ゴールのないトレーニングはない)ということを教わってきました。就職をめざしてのトレーニングはゴールがなければトレーニング足り得ないという当然の論理なのですが、精神障害者へのきめ細かい支援を続けてきた私たちにとって、ゴール設定=利用期限を設定することは高いハードルでした。もし完全な利用期限を設けたら、行き場のない人はどうする? 追い出されたという気持ちが残るのではないか? 病状が悪くなる人が出たらどうする? 就労支援はほどほどにしないと再発もあるのでは? 等々、堂々巡りの話し合いが続きました。その根底にあるのは、やはり再発しやすい病気なのでストレスの多い就職活動を行うこと自体難しいのではないか、というスタッフの側の思い込みが多かったような気がします。

厳密な利用期限を作るべきと分かっていながら(例外は必要、この人だけは施設で見るべきだ・本当に大丈夫か?)という思いを、職員それぞれが一方で持っているため、一度は決まった議論が蒸し返され、話し合いは半年に及びました。最後は、《今までと同じ支援では就職できない、就労支援を確実にするノウハウを作ることが、ニーズに沿うものだから、ここを工夫して乗り越えるしかない、そのためピアスを作ったのではないか》というところで、一致しました。

開所から3年目に入っていたため、今いる人は経過措置として3年の期限にする、個人担当性を徹底して、担当が責任を持って支援をし、その後の行き先を利用者と共に決めていくという具体案を決めていきました。今思えば職員全員が悲壮な覚悟をして全員一致の結論を出したのです。それからが大変でした。利用者と家族に説明し、予想通りの反発を受け、利用者の不安も現れ、話し合いを繰り返しました。かなり無理のある職場探しを経て、最後に残った10人に別の作業所や利用期限のない授産施設など、本人の希望に合わせて連絡調整見学を繰り返し、納得のいく卒業をめざしました。

2.就労支援システムの構築

こうした過程を踏まえて、利用期限と完全な個人担当制を柱にしたシステム作りが始まりました。チェックリストを使い仕事の質と量を測る、就労プログラムを充実させて、対人関係能力の向上をめざすなどトレーニングの中身を充実することにまず時間をかけました。その後は就労支援担当員を配置し、協力機関型ジョブコーチを導入することで、職場開拓から定着支援を着実にする流れを作りました。こうしたシステムができてからは、就職率定着率ともに高くなってきました。

3 まとめ

精神障害者は再発しやすい、就職などは一生無理と言われ、本人も家族もあきらめて、低め安定の受動的な人生を受け入れさせられてきています。しかし、元気になれば働くことを通じて社会参加したい人が増えるのは当然で、新薬やリハビリ施設などによって再発不安の軽減した今、就労ニーズはいつになく高まっています。

きめ細かい支援があれば、短時間労働を継続できる人が多いこともこの実践で分かりました。動機の高さと言語による確認、潜在能力の高さを考えれば、精神障害の人たちにとってパートで働いていくことは現実に到達可能な目標です。そのプロセスの中で、多少自分を変えること、社会の要求に合わせることを学ぶことも大事なことだと思います。そうしたトレーニングを経て実力をつけ職場で役に立つ人になる、そのことが誇りを持って生きることにつながっていきます。

苦しい入院生活の後2年間のトレーニングを経て、最近就職したメンバーが「働けることがこんなにうれしいとは思わなかった。あきらめないで本当によかった」と目を輝かして話していました。支援者と当事者が二人三脚を続けながら、企業に社会に風穴を開けていきたいと思っています。

(あまのせいこ 多摩棕櫚亭協会常務理事)