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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年5月号

1000字提言

フツーって何??

松山智

「フツー」って一体何なのだろう……。

「まっちゃんは、ほーんと『フツー』の人と変わらないよね!!」………これってもしかしたら非障害者からすれば、最高の褒め言葉なのかもしれない。だが、僕にはピンと来ないのが正直なところなのだ。偏屈な性格はもとより、非障害者の思う、フツーという概念が僕には分からない。

たとえ聴覚障害者であっても、ある程度発声が明瞭ならば、「フツー」扱い。これって、如何なものか。そこでまず汲み取れるのが、聴者みたいな明瞭な発声ではないけれど、フィードバックすることなく聞き取れる、それで「フツー」の人となる。誠に滑稽な話だが、少し聞こえ(聞くことよりも、表情や動作などから憶測・推測している部分のほうが多いのだが)ると、決まってこう言われ(聞かれ)る。「松山くんだったら、電話も『フツー』にできるんでしょ!?」と。それは大きな勘違いだ。

僕の場合、時として「音」としてしか捉えることができない。

つまり、「何言ってんじゃ、この人…???」となる訳だ。

実際、今の職場ですら、見えない障害である。聴覚障害についての知識は皆無と言っていいほど、無知である。発音の不明瞭な者、聴力が著しく低く、補聴器を装着してもほとんど効果の見られない者……。そういう彼らより、僕のほうが全然幸せだと思い込み、サポートすべき存在であると思われている。

しかし、どうだろう。実際、人工内耳を装用すれば、音楽や静寂な場での会話に華を咲かすことはあっても、『能力』とは全く関係ないのだ。ビジネス上での電話によるオペレーターが困難であっても、物理的仕方のないことであって、無理に努める必要性はどこにもないはずだ。

「フツー」という何気ない言葉が生み出す危険性。また、差別をも含めた「フツー」。安易に用いてしまえば、障害者の中でランキングが発生してしまう。だれが一番「フツー」に近いのか、と。

「松山なら、聞こえるんだし(どこでどうやって判断しているのか、人工内耳という最先端医療器機を埋め込んでいるからそう思っているのか定かではないが)他の聴覚障害者と比べれば、少しだけ大変で、後は何でもないだろうと!?」という、意味の分からないフォロー。全く、フォローにすらなっていない。

だれもが自分の特性や能力を発揮できる社会にしていくために、我々は個々の人格を認めなくてはなるまい。ちっぽけな日本から、世界を見たとき、私たちに「フツー」という言葉は消えていくはずだ。

だれもが、「フツー」。………僕は、松山智でありたい。

(まつやまさとし 会社員)