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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年5月号

列島縦断ネットワーキング【富山】

みんないらっしゃい。このゆびとーまれ!

惣万佳代子

はじめに

ノーマライゼーションが日本に入ってきてから20年は経つ。日本人はそれぞれの思いでこの言葉の意味を受け止めているであろう。私は人間には特別な人はいないということと、だれをも排除しないということがノーマライゼーションの社会だと思う。

だれもが障害者になる可能性はいつだってある。2年前、私は階段から落ちて右足を骨折し、40日間入院した。車いすと松葉杖生活を2か月間経験し、歩けないことがいかに不自由なことであり、人は一人では生きていくことができないということがよくわかった。人に迷惑をかけてはいけないと親から教えられたが、迷惑ではなく人に支えてもらって生きることが人間社会であり、動物にはないすばらしいことなのだ。

「このゆびとーまれ」を開所して12年が経った。「ここには、ごちゃごちゃにいろんな人がいるねぇ。まるでおでんみたいだねぇ」と見学者から言われた。まさにその通りである。だから、いつも笑い声と笑い顔が絶えないのであろう。私たちの活動をノーマライゼーションの視点から述べてみたい。

みんないらっしゃい。このゆびとーまれ!

このゆびとーまれは平成5年7月に富山市の住宅街で産声を上げた。富山赤十字病院に勤めていた看護師3人(筆者と西村和美と梅原けいこ)が退職金を出しあって開所した。対象は赤ちゃんからお年寄りまで、障害者も、みんないらっしゃい。このゆびとーまれにした。

日本の福祉施設はお年寄りだけで100人、200人が住んでいる。知的障害者だけで500人も住んでいる施設が日本のあちこちにある。同じような人たちだけで一つの村(コロニー)をつくってはいけないと12年間言い続けてきた。それは異様な社会であり、お互いの相乗効果がないからである。村に赤ちゃんからお年寄りまで、そして障害者(児)もいるから、だれもが輝くのである。

“豊かな人間関係の中で人は育ち、喜びも大きい。一人ひとりが輝く。”と常に言っている。

最初の利用者は障害児だった。

このゆびとーまれをつくるきっかけは、富山赤十字病院に看護師として20年勤めたこと。退院許可がでたおばあちゃんが私に「自分の家ながに、どうして家に帰れんがけぇ。畳の上で死にたいと言うとるがに」。その言葉で3人の看護師が立ち上がった。日中、お年寄りを預かれば家に住むことができ、畳の上で大往生できるのではと思った。

開所する前日、明日から開所だというのに利用者の申込みが一人もなかった。不安がだんだん募ってきた夕方、電話がかかった。身体障害者手帳1級の3歳の子どもの母親からだった。私たちは、お年寄りを支えたいと思ってこのゆびとーまれを始めた。だから最初の利用者はお年寄りだと思い込んでいた。それが障害児であった。その理由が20代のお母さんが、一番オシャレをしたい時に、3年間1回も美容院に行くことができなかった現実ということに驚いた。

その頃はデイケア事業もなく障害児をもっているお母さんたちは、自由時間がなく、子どもが学校に行っている間だけ自由時間を持てたのだ。冠婚葬祭や自分が風邪などで倒れた時などは親戚に頼まなければならなかった。ある母親は「親戚に預かってもらう時、気兼して菓子箱をもって頭下げんなん。それでもいい顔されない時がある。このゆびとーまれはお金を払わんなんけど、職員さんのほうがありがとうと言って頭下げてもらえる」。

ある母親は「あると思っただけで気が楽になった。いつでも預けることができるなんて夢みたいです。この子が死ぬまで私はリフレッシュする時間などないと思っていました」。

「自分と惣万さんはどう違うがけぇ?」

中村恭子さん(療育手帳B・36歳)が、このゆびとーまれで有償ボランティアとして働き始めて、6月で11年になる。中村さんは養護学校を卒業して、あるビニールの会社に勤めたが、数年後会社をクビになった。その後、ハムの会社に勤め、ウインナーのしっぽ切りをしていた。「毎日同じ仕事で嫌になって、ウインナーをまん中で切ったりしていたもんやからまたクビになったちゃ」と明るく話す。その後、このゆびとーまれに勤めたのである。勤め始めて3年間はよく休むことがあった。「ここには二度と来ません」とたんかを切って家に帰ったこともあったが、翌日何事もなかったかのようにケロっとした顔で出勤してきた。皆勤賞を出せば休まなくなるのではと考え、1か月休まないで出勤した場合、5000円の皆勤賞手当てを出した。また、このゆびとーまれには中村さんの他に3人の知的障害者が働いているので、そのまとめ役を中村さんにしてもらおうと班長を引き受けてもらい、班長手当てを出した。それが功を奏したのか中村さんは休まなくなり、自分は班長なんだということを意識するようになったのだ。

中村さんに私が教えてもらったことは多々ある。その一つを紹介しよう。中村さんは越中八尾駅から1時間程かけて通ってきている。毎日、JRの券売機で切符を買っていることを数年経って職員が私に教えてくれた。「障害者手帳を持っているんだから、割引いてもらいなさい」と私が言うと、中村さんがとても嫌な顔をした。それで私は夜に中村さんのお母さんに電話をした。すると、お母さんは「恭子はどうしておまけしたもらわんなんがけぇ。惣万さんだって切符を買うじゃないか。惣万さんと自分はどう違うがけぇと言うんです」。これを聞いた時、中村さんはすごいと思った。そしてこのプライドがあるならどこに行っても生きていくことができると思った。私はいらんお節介を言い、そしてプライドを傷つけてしまったのではと思っている。

世話されるほうから世話するほうへ

大塚一彦さん(療育手帳B・26歳)は養護学校の中学部2年から高等部3年までの5年間、利用者だった。卒業面接時、彼は作業所かこのゆびとーまれかと聞かれ、このゆびとーまれを仕事場として選んだ。5周年の記念集に『ぼくのしごとは、あかちゃんだっこ。くるみちゃん、まゆちゃんとあそぶ。ごみすて。あさ6じに目がさめる。いちどもしごとをやすんでいない。たのしい。つかれる。あしたもくる』と投稿している。

おわりに

日本は『高齢者』『障害者』と縦割り行政である。いろんな弊害を産んできたが、なかなかその壁を打ち破ることができなかった。このゆびとーまれの活動は、その壁に風穴を開けたとよく言われている。

日本は、介護保険と障害者自立支援法が3年後にドッキングしようという方向である。それはノーマライゼーションが根底になっているのだと思う。だれもが一緒に差別されることなく過ごすことができる。一人ひとりが主役であり、当たり前の社会を作っていきたい。

(そうまんかよこ 特定非営利活動法人デイサービスこのゆびとーまれ理事長)