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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年7月号

障害者にとってのインクルーシブな開発の実現に向けて:今後の展望

ジュディ・ヒューマン

生後18か月の私がニューヨーク・ブルックリンで暮らしていた1949年、ポリオが流行し、私は四肢マヒになった。家族は第1子が障害をもったという事実に比較的すぐに順応し、私が成人したら良い仕事を得て自活できるよう、質の高い教育を受けさせようと決心した。

両親は、自分たちが最善を尽くし、私が勉学に励めば、障害はしっかりした人生を送る妨げにはならないはずだと信じていた。何しろ、ルーズベルト大統領は車いすで、合衆国大統領職を4期にわたって立派に務めたのだから。しかし、いわゆる“アメリカンドリーム”が娘のもとに容易にはやってこないことを、家族はすぐに悟った。一方、息子2人は娘のような壁に直面することはなかった。どちらも障害者差別を受けなかったからである。

5歳のとき、母は私を幼稚園に入れるために、近所の学校まで私の車いすを押していった。その学校にはスロープがなかったが、母は私を学校まで連れていき、階段のところでは運び上げ、放課後には迎えに来るという万全の態勢を整えた。しかし、母が驚いたことに、歩くことのできない私は近所の学校に通うことはできないと、校長から通告された。教育委員会はそれに代わり、週2回、計2時間半の教育を施すために、教師を3年半、私の家に派遣した。

9歳になって、私はようやく学校に通えるようになったが、障害児学級だけであった。これに対して弟たちは、近所の学校に通い、週30時間の教育を仲間と一緒に受け、私が不十分な教育や徹底した差別の結果として味わった疎外感・劣等感を経験することは皆無であった。教育委員会の決定と方針は、私の基本的権利を否定する最初の差別行為であり、両親がこのような差別行為と闘う方法を学ばなければ、私に長期的な悪影響を及ぼしたはずである。

両親は当初、私が受ける差別に対処する心構えができていなかったが、私が夢を持ち、叶えることができるよう事態を打開する方法は、同じように差別の壁に直面している子どもを持つ親と力を合わせることだと、急速に理解していった。母は他の親に声をかけ、学校制度は障害児の教育に責任を持つべきだと訴えるため、教育委員会担当者と面会した。

こうした会合を重ねた結果、小規模な調整がなされ、その結果、地域レベルでかなりの変革が実行された。ニューヨーク市の学校は多くがアクセシブルとなり、一部の生徒にとっては初めて、メインストリームの公立学校に通うことができるようになった。

1970年代半ばになってようやく、障害を理由に障害児・者を差別することは違法であるとの裁判所の判断が出始め、連邦政府の助成対象のあらゆるプログラムにおいて、障害を理由とする差別を禁じる抜本的な国内法が合衆国議会を通過した。1949年から70年代半の間に、こうした進展を可能とする重要な変化が起こった。1949年当時、障害者差別根絶をめざして闘う組織的運動は存在しなかった。しかし、1970年代半ばには、依然不十分ながらも力を増した、障害種別を超えた運動が生まれていた。この運動は、当事者団体の設立を通じた障害者のエンパワーメント、ならびに、連携によって壁は取り除くことができるという障害者の信念によって生み出されたものである。

障害運動は、すでに組織化を果たして1960年代には人種、性別、年齢による差別を禁じる法律の制定をめぐり議会へのロビー活動を成功させた他の弱者グループから教訓を得るとともに、このモデルに習おうと考えた。障害運動はそのために、障害者が直面している差別は限局的なものではなく広範にわたるものであり、都市・農村を問わず、あらゆる社会経済的背景を持つあらゆる種別の障害者に影響を及ぼし、障害者を人生のあらゆる側面から除外する結果をもたらしていることを示した。同様に、他の弱者グループの代表は障害運動から学ぶとともに、より大きな公民権運動に障害者代表の参加を要請した。

今日、公民権運動において、すべての人の平等をめざす運動および闘いにとって、障害者差別が重要な問題であることは疑問の余地がないと理解されている。

当時はそのような認識も呼称もなかったが、我々は米国の障害運動において、インクルーシブな開発を求めて闘っていた。我々は、あらゆる法律、政策、慣行、プログラム、予算配分への障害のインクルージョンを訴えた。社会の平等な一員となるためには、社会のあらゆる側面に参加する必要があるのだと主張した。過去35年以上の間に、障害をもたない仲間と同じ学校に通い、同じバスに乗り、同じレストランで食事をし、同じ職場で働くことから、我々は、あるいは社会全体は、徐々に恩恵を受けている。

米国の障害者が直面している差別は、世界各国の障害者のそれと極めて似通ったものであった。障害者団体の設立をはじめとする同じようなアプローチも、障害者差別の解決に向けて各国で展開・実施された。こうしたアプローチは、国際分野、とりわけ国際連合などの国際機関で起こった重要な展開によって強化された。

たとえば、国連は1970年代に、「精神薄弱者の権利宣言」(可能な限り地域での生活を促進)、「障害者の権利宣言」(障害者の政治的・市民的権利を促進)など、障害者に関する多くの重要決議を採択したほか、1976年には総会が、1981年を「国際障害者年」と宣言した。これらの宣言は、「国連基準規則」などの後続の重要文書と相まって、望まれていた障害問題の認知度を大いに高めるとともに、特に、障害問題に対する国レベルのアプローチの策定に障害者および当事者団体の声が組み込まれるよう訴えた。

国連で現在進行中の新たな障害者の権利条約の起草プロセスでは、障害者の声が大いに取り入れられ、従来の形式的平等主義と闘うさまを、我々は目の当たりにしている。このプロセスは、国際的な基準や方針の整備が障害者のために進められていた1970年代から、これとは対照的に、他の政策決定者との連携によって障害者および当事者団体自身で推進されるようになった現在の状況への効果的な転換を象徴している。

障害者の権利に関する組織的で確固とした国際運動の形成・強化により、さらに大きな開発課題に障害問題を組み込む必要性について、より明確な課題と切迫感がもたらされた。その結果、国際開発分野で重要な進展が数多く見られるようになった。

たとえば、国際開発機関は、その事業との関連で障害問題に関する議論を深めているほか、世界銀行、アジア開発銀行、米州開発銀行(IADB)などによって多くの会議が開催され、事業に障害問題を組み込むための連携方法が検討された。

また、世界銀行とIADBのデータ収集計画に見られるように、これら国際開発機関の多くは障害問題固有の情報収集にさらに注力し、事業に反映させている。こうした活動と連動して、JBIC[国際協力銀行]など多くの機関が、障害問題に取り組む職員の能力向上に動き出すとともに、ベースラインの確立と、障害問題を取り入れる可能性の模索を目的とした事業方針・慣行の見直しを現在進めている。

こうした見直しの結果、ILO[国際労働機関]による障害者雇用方針に見られるように、障害者の採用方針・慣行が整備された例もある。能力向上の取り組みは職員だけにとどまらず、障害者の教育訓練およびエンパワーメントへと拡大し、開発プロセスに対する理解とかかわりが深まっている。ダスキン基金[「財団法人広げよう愛の輪運動基金」]、JICA、SIDA[スウェーデン開発庁]、DFID[英国際開発省]、UN DESA[国連経済社会局]、EUが支援するプログラムなどがその例である。

WHOや世界銀行による報告など、世界規模の報告もそのテーマの中で障害問題に着目する傾向を強めている。北欧諸国の開発関連省庁、JICA、USAID[米国際開発庁]など、多くの二国間開発機関は、その開発活動に障害問題のインクルージョンを義務付ける方針をとっている。「障害と開発に関するグローバル・パートナーシップ:(GPDD)」のような取り組みは、さまざまな開発主体(各国政府、多国間・二国間開発機関、DPO[障害者団体]、NGOを含む)を結束させることによって、途上国の貧困削減戦略への障害問題のインクルージョン促進ならびに「ミレニアム開発目標」達成をめざしている。

これらの実例は確かに完璧ではなく、多くは依然脆弱であるが、それでもなお、開発機関、政府、市民社会、学術研究機関、企業において、成功例やシンプルながらも効果的な解決策の探求と実施を通して、インクルーシブな開発を支援する機運とコミットメントが高まっていることを如実に示すものである。しかし、こうした取り組みが現在のペースにとどまるならば、途上国に住む4億人以上の障害者と家族の貧困を近い将来、大幅に削減できる可能性は限られている。

我々がめざすべき到達点は、障害が本来の分野横断的問題として捉えられるとともに、ジェンダー、環境、インフラ、教育、保健、HIV/AIDSなど、従来からの開発問題に与えられた情熱を持って取り組まれるような状況である。インクルーシブな開発という枠組みで障害問題を捉えることにより、為政者、実践家および障害者自身は、障害者の開発ニーズにより有意義で効果的、かつ効率的に取り組むことができる。

インクルーシブな開発というこのビジョンを達成するためには、あらゆる方面の開発主体がこのプロセスにおいて連携し、障害者と対等な立場で取り組む姿勢を持たなければならないだろう。開発主体はしたがって、インクルーシブな開発というアプローチの効果的な運用能力を妨げるような偏見や先入観の有無を判断するための自己評価を、積極的に行う必要がある。障害者が尊敬されず、学校に通えず、非障害者とともに働くこともなく、パーティに招待されず、“~以下”もしくは“異常”と見なされたり、慈善の対象と見られたりする社会で育った人は、ある段階で可能性を見出すことができず、障害者を“特別”と見なし、典型的な開発活動から恩恵を受けることができないと思われる。

障害者自身の完全参加なくして進歩は望めないことは、歴史も示している。障害者は、開発機関、政府、企業、大学、市民社会、そして何より意思決定の場で働かなければならない。こうした職責を即座に担うことのできる有能な障害者は、世界各地に存在する。また、開発の意思決定プロセスに有意義に参加するため、我々は障害者および当事者団体の能力向上を継続する必要がある。

障害者の権利に関する新たな国際条約の採択が迫っているが、これは我々にとって非常に大きなチャンスである。貧困撲滅の責任と可能性を持つすべての人のエンパワーメントと教育の促進に我々が全力を尽くしてはじめて、こうしたチャンスは現実のものとなるだろう。