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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年10月号

1000字提言

純粋な気持ち

稲垣吉彦

「おじちゃん、この棒は何? なんでこんなの持ってるの?」

「おじさんは目が悪いから、この杖がないと歩けないんだよ。この杖で危ないものがないか確かめながら歩くんだよ」

「えっ? 目が悪いの? 足が悪いんじゃないの?」

日も沈みかけたある日の夕方、私は娘が通う保育園で多くの園児たちに囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられた。

私の職場が自宅から遠いこともあり、保育園の送り迎えは、いつもほとんど妻がやっている。妻の仕事の関係で、どうしてもお迎えの時間に間に合いそうもないときは、そのときだけ私が会社を定時に退社して、娘を迎えに行くようにしている。私が白杖をついて娘を迎えに行くと、いつも決まって娘の友達に囲まれ、同じような問答を繰り返す。娘が年長組となった今では、そんな会話を聞き慣れた子もいて、物珍しげに質問を投げかける園児に、私に代わって説明をしてくれる子もいるほどである。

人生半ばで視覚に障害を負った私としては、今でこそ保育園のお迎えにも慣れたが、当初は白杖をついて娘を迎えに行くことに強い抵抗を感じていた。目が不自由な私が娘を迎えに行くことで、父親が目が見えないことを理由に保育園で娘がいじめに遭うのではないか、またそうなれば娘に恨まれて嫌われてしまうに違いない、などと勝手に想像をふくらませ、自らの気持ちの中に厚いバリアを張り巡らせた。はじめのうちはとにかく保育園から一刻も早く脱出することだけを考え、子どもたちの素朴な質問にもろくな返事もせず、娘の手を引いてそそくさと逃げ帰っていた。

「パパって保育園で人気者なんだよ。いつもパパが迎えに来ると、みんながパパに集まって私がなかなか近づけないんだもん。私のパパなのに…」

この娘の言葉で、私の気持ちのバリアは一気に崩壊した。大人が考えている以上に、幼い子どもの思考は純粋である。そこには障害の有無など余計なバリアは存在しない。あるのはあらゆることに対する興味と関心だけである。

悲しいことに、成長とともに、だれもがこの純粋な気持ちを失っていく。核家族化、少子化が言われて久しい昨今、他人に対する関心は薄れ、「勝ち組、負け組」という言葉に代表されるように、「自分さえ良ければ」という考え方が蔓延しているように感じる。豊かな社会生活の実現を考えるうえで、幼い子どもたちの純粋さから学ぶべきものは多いのではないだろうか。

(いながきよしひこ 有限会社アットイーズ取締役社長)