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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年11月号

障害こと始め

連載「障害こと始め」を読んで思うこと

沖川悦三

私はリハビリテーションセンターで身体に障害がある方々のための仕事をしていますが、今回のこの連載を読むまで「障害」という言葉に対して深く考えたことがありませんでした。全く考えたことがなかったわけではないのですが、深く意識したことがなかった、と、いうのが本当でしょうか。

と、いいますのも、私たちのまわりでは「障害者」という表現があまり使われません。「身体に障害がある人」少し前までは「身体障害者」だったでしょうか。どうしても、人に対して使わなくてはいけない場合にはこのような表現になりますが、どちらかというと、医学的な身体障害の内容を指して「脊髄損傷者」のような使い方になります。それも、だれか個人を指す場合には使われません。

前置きが長くなりましたが、そんな少し無責任な私がこの連載の感想を書くことをお許しください。

言葉に込められた思い

まず、この連載のトップバッターである花田春兆さんの「はじめに言葉ありき」を読んで共感するものがありました。日本語に対する感覚といいますか、これまで一字一字の漢字の意味までは深く考えていませんでしたし、「的確な表現を持つ日本語」を変えるというのには私にも違和感があります。ただ見慣れていないだけなのかもしれませんが…。

日本語の用語(言葉)は、それに使われる文字の組み合わせがかなりの比重でその用語の意味を表現すると思います。ですが、1文字をとってその文字の意味だけにその用語を代表させることはできないような気がします。おそらく一人ひとりの、その言葉(用語)に対する思い入れやこだわりが1文字にまで入り込んでいくのでしょう。そのこだわりは大切だと感じます。

「碍」という字については、実は学校で習った記憶がありません。勉強が嫌いだったからかもしれません…が、「碍子」は知っています。余談ですが、日本の「碍子」は白い陶磁器ですが、フランスのそれは青いガラス製で、とても美しいのだそうです(見たことはありませんが…)。で、その碍子を知ったのも高校生くらいだったような記憶があります。つまり、私になじんでいないのです。言葉とはそういうものなのかもしれません。

子どもの頃の違和感のある言葉

ここで私の子どもの頃の話をさせていただきます。初めて障害のある方の呼び方を聞いたのは、小学生の頃、母から聞いた「かたわ」という言葉でした。

私の実家はかなりの田舎ですが、その近所にいらした(近所と言っても2kmくらい離れていました)身体に障害のある方の話をするときに出てきたと記憶しています。当時は何の違和感もありませんでしたが、今ではとても変な言葉に感じます。そして小学校には、当時の「特殊学級」があり、2~3人の児童がいました。今考えると知的障害児であったと思いますが、その頃、彼らに対する呼び方は、「**ちゃん」であり、私はそのクラスによく遊びに行っていた記憶があります。当時のことは正確には覚えていませんが、あまり複雑には考えていなかったと思います。

大人になって素直に受け入れられる言葉

それから大学時代、当時の「精神薄弱児・者」の施設でボランティア活動をしておりました。この時も、その言葉に対して特別な感情はありませんでしたが、「知的障害」という言葉に変わってから、それが最適な言葉かどうかは別にして、素直に感じられるようになっています。私にとって「精神薄弱」は意味をとらえにくい言葉だったのだろうと思います。これは「統合失調症」にも通じるものがあるかもしれません。最初は違和感がありました、といいますか、意味がよくわからなかったのです。しかし、その病気の概念まで同時に修正し、言葉と一緒に広まっていったことが、私の中への素直な受け入れにつながったと感じます。

根底にある概念が大切

今回の連載を読んで、以上のようなことを考えるきっかけになったのですが、言葉の問題だけの感想になって申し訳ありません。

最後になりますが、英語表記についてのお話を読んで、日本語ほど複雑な意味を持たない文字(単語)の組み合わせで表現するために、その根底にある概念が大切だと感じました。日本語の「障害者」という言葉も、近い将来、多くの人たちが素直に受け入れられる別の言葉になっていくのでしょうか。どちらにしても、奥底にある意識の変化が重要なんだなぁと思います。

椅子の「バックレスト」は日本では「背もたれ」と呼び、車いすの背もたれは国際的な用語として、最近「バックサポート」になりました。同じものを指していても概念上の役割が違います。言葉は難しいものですね。

(おきがわえつみ 神奈川県総合リハビリテーションセンター)