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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年4月号

1000字提言

自分のやり方で自分らしく

二羽泰子

「私は全盲だが白杖がなくともまるで見えるように普通に歩けます」「うちの子は障害があっても普通の学校に行き、周囲の冷たさにも負けず何とか卒業しました」、そんなことを耳にするたびに私は切なくなる。「障害はあっても普通なんです」、そう言いたくなる気持ちは私も視覚障害のある当事者として痛いほどよく分かる。特別視されることで傷つくことが多いからこそ、「普通である」ことがいつの間にか最高の宝であるように感じてしまうのだろう。「読み書きもできないのに仕事ができるんですか?」などと言われるたびに、私もむきになっていかに普通に仕事ができるかを強調するし、「入社試験を特別な措置なく普通に受けるなら一応審査しますけど」などと言われれば、悔しさでつい「大丈夫です」などと意地を張ったりしてしまう。しかし、私たちの目標は「普通にそつなくこなすこと」なのだろうか?普通とは果たして何なのだろうか?

たとえば壁が隙間だらけでドアも窓も閉められない車があったら、日本では完全に欠陥品だろう。私も日本でそんな車に乗りたいと思ったことはなかった。だが、フィリピンで暑い中長旅をしなければならない時、一般的な車は暑くて耐えられたものではない。クーラーを付けていても、ちょっと車を離れて観光でもしようものなら、戻った時には車の中は熱地獄なのだ。私はそういうわけでフィリピンでは、高級車よりも、風通しのいい隙間だらけの車が大好きだったのだ。たとえ砂だらけになろうとも、日本で普通の車より断然快適だった。今まで紛れもなく「普通」だと信じていた事実が、ところ違えば一気に崩れてしまう。「普通」なんてそれぐらい当てにならないものなのである。

どこか遠くに行きたいと思った時に、高級車を乗り回すことが常に最善なんてことはないと思う。見かけが悪くても環境にいい乗り物があるかもしれないし、多少危険でも楽しい乗り物があるかもしれない。私たちが求めているのは、ある目的を達成することなのであって、その目的を「普通」なやり方で達成しようが、特殊な方法を使おうが、それは自由ではないかと私は思う。普通にやれば無難だが個性に欠け、特殊な方法を使えば違った視点が持てるが問題も多く発生するかもしれない、ただそれだけのことである。無難すぎたなら個性を追求すればいいし、問題が起きればより良い方法を模索すればいい、そうして補完しあえばいいのだから。

他の人と同じようにやらなくてもいい、めいっぱいその人らしいやり方でやればいい、人々がそうして自分に最適と思うことを選択できるような社会を目指すことが、だれもが生きやすい世界への第一歩になる、そう皆さんも思わないだろうか。

(ふたばやすこ ユース交流ネットワーク)