音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年8月号

精神障害の定義における困難性

井上悟

1 はじめに

精神科領域では診断の客観性と診断名の斉一性を確保するため、診断基準(ICD―10、DSM―4)を用いた診断が普及してきました。しかし、この診断基準によって下された同じ診断名であっても、日常生活や社会生活の面で観察される制限にはかなりの幅がみられますし、治療への反応性も決して一様ではありません。また精神科における疾患概念も時代とともに少しずつ変わってきおり、診断基準もこういった変化と無縁ではいられません。本稿では、精神障害の定義を困難とさせている現代の要因を整理することにまずポイントを絞り、考察してみました。

2 本邦の法律に基づく定義

障害者基本法の第2条では精神障害者を「精神疾患があるため長期にわたり日常生活または社会生活に相当な制限を受ける状態にある人」と定義しています。これは能力低下(disability)に着眼した障害概念となっています。また障害者基本法の一部を改定する法律案の付帯決議(平成16年6月)では、「「障害者」の定義については「障害」に関する医学的知見の向上等について常に留意し、適宜必要な見直しをするよう努めること。また、てんかん及び自閉症その他の発達障害を有する者並びに難病に起因する身体又は精神上の障害を有する者であって、継続的に生活上の支障があるものは、この法律の障害者の範囲に含まれるものであり、これらの者に対する施策をきめ細かく推進するよう努めること」とされ、時代に即応した柔軟な対処も併せて求められています。

精神保健福祉法の第5条では、精神障害者を「統合失調症、中毒性精神病、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者」としています。これは医学的(diagnosis)な障害概念といえましょう。「その他の精神疾患を有する者」というところである程度の運用の幅が担保されている体裁になっていますので、この第5条は障害者基本法第2条の記載にある精神疾患を表すものとして理解されます。

3 診断基準

ICD―101)とDSM―42)というのが主だった診断基準です。いずれも臨床像によって診断が分類されており、それぞれの状態記述のうち、どの診断名の定義が現実のケースに合致するのかを照合して診断します。およそ誰が診断しても同じ診断名になるという意味で客観的な診断基準であるとされています。しかし、このように現象面の特徴のみを捉え、病因・病態学的な考察を埒(らち)外に置く手法が真に客観的であるのか、という点で疑問は残ります。またハーブらはDSMを、「社会的価値観と、政治的妥協と、科学的証拠と、そして保険請求用の病名のごった煮が入った大鍋である。」3)と批判しましたが、控えめにいっても医学的な診断基準とはいえ、外圧による影響を免れるのはいつの時代も難しいようです。

4 スペクトラムという考え方

スペクトラムというのは連続体という意味です。つまり症状の軽重や不揃い等の違いがあっても、病因・病態的に同じ疾患の延長として捉えられる一群の病像があるという考え方です。統合失調症・躁うつ病や自閉症等では近年、こういった見解が一定の支持を得ています。しかし、これはまたある意味で、先の診断基準の妥当性を揺るがす概念ともいえるわけです。

5 ICF

ICF(International Classification of Functioning, Disability and Health)は、人間の生活機能と障害の分類法として、2001年5月、世界保健機関(WHO)において採択されました。ICFでは、人が生きていく姿の全体像を、まず「生活機能」と捉え、その中の要素として「心身機能・構造」「活動」「参加」の3つのレベルを考えます。そのうえで、障害をマイナスとは考えず、生活機能の中で問題が生じている状態と捉えます4)。今後、精神障害の定義や理解に関しても、このICFの理念を汲んだ形で生活機能や環境要因を含む包括的な方向に発展していくことが見込まれます。

6 おわりに

以上、精神障害の定義を困難としている要因を挙げました。診断基準(医学モデル)を用いた障害の定義には、診断基準の精度的問題と外圧による流動性、精神医学の潮流との矛盾等の不安定な要素が少なからずあります。しかし、これは一方で、時代・社会の変化や新たな医学的知見を内部に同化していくのに必要なシステムでもあるわけです。こういった医学モデルによる限界に対して、障害の理解・定義における精度や妥当性を補正するツールとしてICFの役割が今後、期待されます。2002年に閣議決定された障害者基本計画においても、「WHOで採択されたICFについては、障害の理解や適切な施策推進等の観点からその活用方策を検討する。」と明記されています。

(いのうえさとる 東京都立中部総合精神保健福祉センター)

【参考文献】

1)「ICD―10 精神および行動の障害」、(融道男、中根允文、小見山実 監訳)、医学書院、1993年

2)「DSM―4 精神疾患の分類と診断の手引き」、(高橋三郎 訳)、医学書院、1995年

3)「精神疾患はつくられる ―DSM診断の罠―」、ハーブ・カチンス、スチュワート・A・カーク著(高木俊介、塚本千秋訳)、日本評論社、2002年

4)「ICFの利用と活用」、上田敏著、萌文社、2005年