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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年8月号

1000字提言

「違い」イコール「敵」ではないはず

二羽泰子

「自閉やLDなどにのみ注目が集まり、盲教育が危ない」と言う視覚障害専門家と、「視覚障害のような少数で重度の障害者に予算を使うのは非効率だ」と語るLD専門家の対立、そんな光景を皆さんは見たことがあるだろうか。自分たちの権益を守るために敵を作るような風潮、障害分野の議論を聞くたびに、私はいたたまれなくなる。私も一視覚障害者として当然、後輩にいい教育を受けてほしいと思っている。その一方で、現在仕事で関わっている自閉などの子どもたちが成長できる教育も真に願っている。そんな願いを持つのは矛盾なのだろうか?

海外に行くと私は、言語や習慣の違いにとまどい、コミュニケーションが取れなくなる不安を覚える。でもあきらめずに理解しようとしていると、言葉が分からなくてもなぜか分かったり、現地の習慣が気に入ってしまったりする。逆に日本に戻ってから、日本はなぜこういう習慣なのだろう、なぜ日本語なのにうまく話せないことがあるのだろうと思わされたりもする。違う障害をもつ人に接する時も、私はそれと全く同じような経験をする。

つまり、違う障害の人に触れる時、自分の視野が広がるだけでなく、視覚障害分野のことについても再発見するのである。「自分の気持ちをうまく表現できず、暴力的になる子」「その場の空気が読めずずっと話し続ける子」、そんな自閉傾向の子どもたちと接していて私は、言語でないとうまく理解できない私と言語でうまく伝えられない彼らとのコミュニケーションが日に日に広がっていくのを感じている。そして思い出したことがある。私の母校にも例外なく似たような人たちがいたのだ。ただただ無視されたり先生から怒鳴られたりしていたその子たちがもっと理解されていたらお互いどんなに成長していたかと思うと、今さらながら心が痛む。

たとえ専門が違っても、たとえ興味が無くても、社会に生きている以上、いわば異質な人たちと関わることが必ずある。その人たちがみんな敵であるなら、私たちは障害や人種や文化ごとに分裂して戦うしかない。私だってもちろん、人はすべて分かり合えるなどとは決して思っていない―それどころか、人が完全に理解し合うなどということは不可能だとさえ思っている。そうではなくて逆に、人は皆違うのだから違っていいじゃないか、せっかくの縁だから向き合ってみようじゃないか、そんなふうにゆったり構えてはどうかと思うのである。

どんなに異質に思えても、お互いが理解し合おうとした時、確実にコミュニケーションが生まれ、新しい視点や発見を得られる。この社会で生きていくために必ず通らなければいけない道であるなら、敵を増やして消耗するよりも、お互いに成長できるほうを選べばいいと思うのは私だけなのだろうか。

(ふたばやすこ ユース交流ネットワーク)