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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年9月号

文学にみる障害者像

池内紀編・解説『山下清の放浪日記』
―自分の感性に正直に生きていくことの難しさ―

菊地澄子

本書は、山下清『放浪日記』(式場隆三郎・渡邊實編、現代社、1958年刊)を元に、ドイツ文学者の池内紀(おさむ)が新たに編集し、五月書房(1996年刊)より出版したものである。放浪中の山下清の日記34編が収録され、12枚のユニークなカットは山下自身の作品による。表紙カバーも、表・裏ともに山下のカラー貼絵で装丁されている。

編者は、最初に「はしがき 山下清のこと」として、日記に触れて簡単に著者紹介をしているものの、本書には山下清の人間性や障害については一言も触れていない。それらの解説を最小限に抑え、山下18歳から29歳までの放浪中の日記を主体に編集している。

元本(前述の現代社刊)には、障害がある人が書いた「日記」であることを、山下の障害と人となりとともに詳しく解説してあった。しかし、本書には、そのような解説はない。このような編集姿勢は、著者山下清に対する人間観に他ならない。つまり、編者の障害観がさわやかに伝わってくる著書である。

山下清は、十代の初め、千葉にある「八幡学園」という施設に入れられた。入所まもなく貼絵を始めた。貼絵は学園の「手工」作業の一つとして課されたもので、鋏(はさみ)を使わずに指で絵をちぎり、それを貼りながら描いていくのである。最初は、他児とあまり変わらなかったが、17歳のとき、銀座の画廊に展示され、大反響を呼んだ。これが山下清が世に出た最初であるが、翌18歳のとき、彼は八幡学園から姿を消した。ところが、3年ばかりでふらっと帰ってきた。しかし、またふらりと出ていってしまい、何年かするとぶらっと帰ってくる。こんな繰り返しであったという。

彼は、なぜ逃げ出すのだろう。不思議でならない。日記を読むと、彼なりにかなりしっかり考えて逃げている。そのくせ何年かすると、ぶっらりと学園に戻ってきている。

「僕は八幡学園に6年半位居るので学園があきて、ほかの仕事をやろうと思って、此処から逃げて行こうと思って居るので、へたに逃げると学園の先生につかまってしまうので上手に逃げようと思っていました」

「朝飯を食べてから、人のすきをねらって、裏の方へ行って、どぶを一とび飛びこえて、下駄をぬいではだしになって――中略――学園の近所でかけずり廻ると、学園の生徒が逃げたと思われるから、上衣をぬいで、なるべく人の居ない所をねらって逃げようと思っていました。逃げた日は、昭和15年11月18日です」

と記している。

学園を出ると線路伝いに歩く。駅のベンチを宿にし、ゆっくりと歩き、4キロ歩くと、1時間休むといった具合で、一日に駅三つ程度のペースで、冬は南の鹿児島にいた。季節とともに移動し、花火が好きだったので、花火大会の催しをたどって移動している。

昭和28年(1953年)、アメリカのグラフ雑誌『ライフ』が山下の貼絵に注目、天才児の行方を探し始める。ちょうど、東京でゴッホ展が開かれていて、ゴッホと山下の作風の類似が指摘された。「日本のゴッホ」だと、ジャーナリズムが騒ぎだし、山下の名が大々的に取り上げられるようになった。それでも彼の放浪は止まなかった。風貌と生活スタイルが世に知れ渡り、見つかると色紙やスケッチを求められ、その都度慌てて逃げるのだった。

日記には、「へたに逃げると学園の先生につかまってしまうので、上手に逃げようと思っていました」「どうすればつかまらないか、むやみにうろつくと、巡査に見つかって、ひどい目にあうだろう」「人にうそをついてだまして、よそで使ってもらおうと思っていました」「僕は生まれつき頭が悪いので、年をかくして15歳といってうそをいいました」「方々の家へいって、人にうそをいってだまして、ふかしいもをもらいました」「僕は上手にうそをいって、さあ、いつうそがばれるか心配ばかりしていました」と記されている。

これらの日記は、独特の味があり、特徴のある語りで克明に体験が書かれている。この日記が「東京タイムズ」紙に掲載され、昭和33年(1958年)、現代社より何種類も刊行され、いずれも数万部を売り尽くし、貼絵同様「放浪日記」として、広く知られることとなった。

しかし、これらの日記や貼絵は、放浪先の現地で生まれたものではなく、放浪中にぶらりと学園に戻ってきたときに、毎日貼絵をした。日記も貼絵と同じように、毎日の作業として課せられていたのである。夕食後の日課として、千字の文字を書いて先生に見てもらう。そうしないと床に就けない。寝るために彼は懸命に思い出して書いたのだろう。貼絵を作り、日記を書くと、彼の頭の中には次に逃げる計画が、盛り上がってくるのだった。

日記には「又、僕はほかへ行きたくなって、出ていく前に、途中で下駄の鼻緒が切れないように鼻緒をたてました。逃げてゆく先の順序を考えて、いよいよ明日は出かける日で、裏の山の草刈りをしながら、空ばっかり眺めて、あしたの天気を心配して、天気がよければ逃げて行く事になりました」と書いている。そして、下着やズボンの替え、お椀に箸などの全財産をリュックに入れるのだった。

彼の放浪は、自分でも「そこがるんぺんの苦労です」と書いているとおり、イヤなこと、辛いこと、食いっぱぐれの連続もあり、決して楽しいものではなかったのだ。それなのに、彼は何を求めて、また学園を逃げ出していくのだろう?

本書に掲載された日記は、山下清が18歳から29歳までの日記を抜粋したものである。この11年間は、ちょうど日本が太平洋戦争へ突入して、敗戦、戦後へと、世の中がひっくり返ったような変動の時代であった。戦中の青少年の教育は、皇国の教育一色となり、人々の人間観も、弱い者より強い者に人間の価値があり、臆病者よりも進んで命を投げ出す者が価値ある人間であるかのように、戦時下の人間観には、人間の価値に明確な序列があった。

このような人間観は、日本の隅々までも行き渡り、各家庭にも諸施設にも浸透し、山下清が生活していた八幡学園も例外ではなかったろう。学園の生活も無意識のうちに皇国の教育へと追い込まれ、このような人間の価値を刷り込んでいった。「学園の中で上げ膳据え膳で飯を食わせてもらうことは、人間の価値がない。学園の外で働いて、お国のために役立たなければ……」といった価値観であったと想像できる。山下自身も自ずとこのような考え方だったのだろう。

彼は、学園内の仕事よりも、学園外での労働に価値あるかのように感じて、外の仕事を求めて学園を出ていく。しかし、外で仕事についても長続きできず、常に学園の先生や巡査の目を避け、自分がついた嘘がバレないかと怯えながら、転々として生きてきた。こんななかで山下が最も怯えていたのは、兵隊にとられることであった。“来年は21歳で兵隊検査”という日記に書いている。

「皆が山下は弁当屋へ来たときより太ったな。とても山下は体格が好いな。来年兵隊にとられると言われた」「僕はいくら体格がよくても、頭の働きが3歳か4歳位の知恵しか無いから、兵隊はとられないと言った」「皆は、頭が悪くても、体がよければ兵隊へとられる、今は兵隊が足りないから、どんどんとられると言っていた」「もし兵隊へとられたらおっかないと思いました。僕は21歳になってから一つ年をふやして22歳にして、去年検査をやって頭が悪くて不合格だと言って、嘘をつこうと考えて居ました」と言う。

障害のない人間は人間性を捨て、我先にと戦場に出て行った。でも、山下は自分の生き方を精一杯模索して、放浪しながらも自分の感性に正直に生きた。この「放浪日記」がその証だと私は思う。

(きくちすみこ 児童文学作家、「障がいと本の研究会」代表)