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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年10月号

心の原風景

山下道輔

ハンセン病回復者、国立療養所多磨全生園在住、ハンセン病図書館主任。

果てに……… ――亡友瀬羅へ――

伊島三吉(山下道輔)

強い北風の吹く明方

鍔のない戦闘帽を斜に被つた友は、それ迄糞尿をふんばりださんとしてたのに……

泡を噴き、消え絶えた小さな懐炉を下腹の上で掴りしめたまゝ、かつての日、己が描いた「冬の窓」の懸つたがくに貌そむけて逝つた……

求める美(もの)の烈しく在れば、残照の光の中を唯、一本の画筆にて塗りつぶさんと、ホワイトの影は、影にそつてはしつたるか…………

あゝ、若き画家のホワイトの影は、陽をうけて異様な反射をば、日に避(ひ)をうけた、そつと、尺度機、置き忘れたばつかりに………

さんさんごご、伝へに、集ひくる人々の、路上にて「おはやう」と、かはし、つれだつてくる、つれだつてくる姿に、「生きたい」とうつたえた一言、ひしとよみがえり憂愁の詮議が胸をあおる………あゝそのひとゝき、集ひ来し人々と共に、ふたたび、逝きて還らぬ友の前に頭をたれた。

僕が園にきたのは昭和16年。12歳の時だったから、在園生活はもう66年になる。父親が同じ病気だったから、尋常小学校2年の時から学校には行けなかった。昼間よく一人で遊んでいたよ。園に来ると小さい学校のようなものがあって、先生も患者がやっていて、そこに通ったんだ。勉強は嫌いだったけど、文字を覚えると本を読むのが楽しくてね。

詩を始めたのは戦後、20代の頃。園内の患者仲間が詩話会というのを作って勉強していた。みんなで文学論を戦わせたりしてね。自分たちが病気だっていう引け目を、何とか文学で乗り越えようとしていたのかもしれないね。あの時の光景は今でも思い出せるよ。詩は仲間たちとの絆でもあったからね。

この詩は、その頃の友人が死んだ時、『山桜』(多磨全生園の機関誌、現誌名『多磨』)昭和25年1月号に発表したもので、「伊島三吉」は僕のペンネーム。その友人は絵を描くのが上手くてね。博打が好きでクセがあったから、園内では変人扱いされていた。でもここに来る人はみんな心の傷を抱えてくるから、何か事情があったんだと思うよ。

ある日、彼は自分が付添いをしている重症患者に食べさせるために、園の外に芋を盗みに出て行って、袋叩きにされて帰ってきたんだ。その後、園内の監房にも入れられて。結局そのことがもとで死んでしまったよ。最期も僕が看取ったんだ。盗みが良いとは言わないけれど、園内の食糧事情は特に酷くてね、みんな腹を空かせて死んでいったよ。そんな時代だったね。園内では、患者は私物をほとんど持てなかったし、みんな身元と素性を隠しているから、遺族もいなければ遺品すらも残らない。詩でも詠んで追悼してやらなければ、彼が生きていたという事実すら残らないんだ。それではあまりに悲しすぎるだろ。そんなつもりで詠んだんだ。

僕は正直、自分のことを詩人だとは思わない。専門的な勉強をしたわけではないし、個人詩集があるわけじゃない。でも、昔の患者はある意味でみんな詩人だったんじゃないかな。自分じゃ気が付かないだけで。挫けそうな心を励まし、仲間をいたわる言葉を持っていたからね。そういう言葉を後世に残すためにも、今、僕はハンセン病図書館をやっているんだ。


横田弘

脳性マヒ、「青い芝の会」神奈川県連合会会長。

写真・菊地信夫

老いた父に

父よ
肩をすぼめ
にごった曇り空のなかに
秋をみつめる
耳の小さい 父よ
あなたは
一人の重度者の未来を
考えてくれたことが有るでしょうか
あなたが存在を許されなくなっても
一人の重度者は生きなければならない事を
考えてくれた事が有るでしょうか
贅沢を云っているのではありません
なんの気がねもなし生きたいだけなのです
生きると云う
生存すると云う 或いは食事すると云う
そんな簡単な事を苦痛に感じなければ
ならないような
そんな生活はいやなのです
もう沢山です

父よ
「オレについていればいいんだ。」と云ったきり
後ろを向いてしまった 父よ
一人の重度者は
あなたにそむく
あなたをつきとばしても
あなたを踏んでも
重度者は生きなければならないのです
人間として生存しなければならないのです

それが
あなたと重度者の僕とによって作られた
黒い病葉を金の華に変えるのだと云う事を
あなたは判ってくれないのでしょうか

父よ
肩をすぼめ
にごった曇り空のなかに
秋をみつめる
白髪のふえた
ちちよ

重度者は
あなたに そむく

僕は障害のせいで不就学だった。幼い頃、兄がいたずら半分で文字を教えてくれた。僕にとって、ものを読むことは自分の世界が広がることだった。重度障害者は、ともすれば親や家族が世界のすべてだと思ってしまう。その意味で、文学は初めての外界との出会いだったと言えるかもしれない。

夢中で本を読んでいるうちに、自分にも何か書けるのではないかという思いが湧いてきた。ただ、俳句や短歌は勉強していないから分からない。だけど、詩なら自分の思いを書けばよいだけだと考えた。でもそれはあまりに安易だった。始めてみて分かったことだけれど、詩というものは怖い。完成がなく、終わりというものがないから。

この詩は『しののめ』昭和40年1月号に発表して、詩集『花芯』(昭和44年)に収録した。この前に、父親が事故で重傷を負ってしまった。当時、僕と父は兄夫婦の家に住んでいた。兄嫁との関係は良かったけれど、体の悪い父と歩けない僕と二人で、四畳半の部屋の中で四六時中顔を合わせて生活することなんて、とてもじゃないけどできなかった。

ちょうどその頃、茨城の生活共同体からこちらに来ないかという誘いがあって、行くことに心を決めた。今でも障害者が家を飛び出すのは難しい。その時も父が猛反対した。父をどう説得するか、そのことで頭が一杯だった。僕は僕の人生を歩みたかった。

僕にとって詩と障害は切り離せない。僕は生まれた時から障害者で、僕が生きることと障害者が生きることとは同じことだ。幼い頃、乗せられた乳母車の中で、自分は普通の人とは違う、弱い立場なんだとしみじみ思った。僕という人間から障害を切り離すことなんてできない。

考えてみれば、僕は文学以外に何もできない。その文学の道も、まだまだ奥は深い。最近考えているのは、「人間の愛とは何か?」「人間にとって憎しみとは何か?」というようなことを、何とか表現できないだろうかということ。30年以上も障害者運動をやってきて、改めて自分の心の底にある闇のようなものを探し、見極めておきたいと思っている。