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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2007年11月号

文学にみる障害者像

映画「殯の森」
~生きていること、死にゆくこと、すべての境界を越えて、いま、つながる命の物語~

上沼美由紀

はじめに

映画は日本にこんな風習がまだ残っていたのか、と訝(いぶか)しく感じられるほど儀式的な野辺送りのシーンで始まる。緑息づく田んぼや茶畑の中を、亡くなった人を悼む葬列が風に吹かれ進む。長いショットや作為の無い人々が次々に登場する展開は、まるでドキュメンタリー映画のようだ。

この作品の監督、脚本、プロデュースを手がけた河瀬直美さんは、生まれ育った奈良の地を愛し、数々のドキュメンタリー作品も手がけている。そこには、故郷のかけがえのない自然から受けたメッセージや、そこに生きる人々の小さな声を真摯に受け止めフィルムを回す姿勢が見て取れる。妊娠・出産という経験を経て、改めて日常を見直し、身の回りに起きていることを描こうとした。根底に、自身のおばあさんに認知症の兆候が表れたことがあり、このテーマにたどり着いたという。主人公である認知症の老人を捉える視線に、彼の最善の理解者であろうとする情愛と、肉親のような労(いた)わりが感じられるのはそのせいかもしれない。

「殯の森」(もがりのもり)は、今年5月に開催された第60回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。彼女は1994年に映画『萌の朱雀』(もえのすざく)でも同映画祭のカメラドールを受賞している。

「ほととぎす」のシーンから

舞台となるのは、奈良の山間地にある古民家を改装したグループホーム「ほととぎす」。ここは、軽度の認知障害を抱えた人が「今」を生きる恵まれた環境が整っている。そこに、新しく介護福祉士としてやってきた「真千子」は、入所者の一人である「しげき」と出会う。しげきは認知症という病気により社会的な死を余儀なくされている。しかし、ここには彼の再生した人生がある。認知症、特にアルツハイマー病の人の中には記憶が遡って失われ、何十年も前の出来事を中心にした記憶で生活する人もいる。しげきもそのようにして「昔の世界」に生きている。33年前に亡くなった妻の真子は、昔のままの姿で目の前に現れては、懐かしい、楽しい時間を蘇(よみがえ)らせてくれる。一緒にピアノを弾き、手を取り合ってダンスを踊ることもある。それなのに、なぜ実際にはいないのか、どこに行けば会えるのか……。昼間は、施設に来た住職と禅問答のようなやり取りをしたり、茶畑の中を少年のように駆け回ったり、と自由闊達に見えるしげきだが、日暮れには孤独に苛(さいな)まれる。

即座に状況判断をすることが難しい認知症の人は、外部からの刺激により混乱を起こしやすく、そうした中で問題となる言動が生まれることもある。部屋のゴミを集めにいった真千子をいきなりしげきが突き飛ばし、けがをさせるシーンがある。真知子は、しげきを驚かせぬよう、声をかけながら部屋に入り、自分が何をしに来たのかを伝えてゴミをまとめた。適切な行動をしたはずだったのに、たまたま手元にあったリュックを持ち上げてしまった。大切なものを盗もうとする人がいる、と思ったしげきは、感覚的にそれを阻止した。真千子にとってはただのとばっちりだ。予測のつく習慣的なやりとりの中に日々身を置いている私たちにとって、認知症という病気により障害をもつようになった人の介護は容易ではない。

1人では日常生活が営めない人と、その人の生活を支援する人である2人。だが、この時期、真千子は自分が支えを必要とする精神状態にあった。事故で子どもを亡くし、夫からはその責任を責められていた。しげきとのトラブルに「すみません」と謝る真千子に、彼女の上司は「こうしゃなあかんてことはないから。」と温かく声をかけ励ます。大きな許容力が感じられるこの言葉は、その後も何度か繰り返され、物語の背景に見えない安心感を与えてくれる。

障害をもつ前のしげきの姿を知らない真千子は、ある時はただ驚かされ、ある時は息を切らして追いかけ、笑い合い、子ども同士のように触れ合って信頼関係を築いていく。自らが抱える悲しみを払拭するかのように、懸命にしげきに向き合うことで、生きる力を取り戻していく真千子は、しげきが自分と同様の深い「喪失感」を抱えていることに気がついていない。

「森」のシーンから

妻の墓参りに行くしげきを車に乗せ出かける真千子。だが、途中の山道で車が脱輪してしまう。迷いつつ1人で助けを呼びに行き、戻ったとき、そこにしげきの姿はなかった。山の中を迷い歩けば、命を落とす恐れもある。必死に探し回る真千子。認知障害のあるしげきは、自分の身体の状況を知ることが難しく、けがも体調の変化も真千子が把握するしかない。けれど、何が起こるか予測がつかない自然の中で、2人の役割に揺れが生じる。

しげきが道に迷いながらも歩き続けてしまうのは、行きたい場所があるからで、真千子に止めるすべはない。真千子もまたしげきと同様に、行くべき道はわからない。そして、さらに深い森の中。しげきの妻の墓を探して、さまよい続ける2人。降り始めた雨は激しさをまし、2人の行く手を阻む川はいつしか濁流となっている。制止の声を無視して、そこを渡ろうとするしげき。真千子は閉ざしていた心の壁を破り、我を忘れて叫び続ける。ほとばしるような「気」が心を捉えたのか、しっかりとした足取りで、戻ってきたしげきは、泣きじゃくる真千子を慰める。原始の世界のような森の中で、2人はようやく人として、等しく向き合うことができた。けれど、2人のいる森は「殯の森」へと変わっていく。自然の持つエネルギーは、生きる力を与えるとともに、潔い終末を許してくれる。2人が着いた目的の地は、「生」と「死」が廻りあい、伝え、分かれて行く場所でもあった。

物語の最後に

人はだれでも人知の及ばぬ自然のリズムの中で、生かされて死んでいく。グループホームで出会った、対峙する立場のしげきと真千子の道行きは、作家の持ちえる想像力で、森の自然にも役を与えながら人間の初源的な生と死を描くドラマになっていた。

河瀬監督が言うように、この映画は社会的な問題としての認知症を描いているわけではないのだろう。しかし、彼女の作り出した映像は、認知症患者の行動の背後にある深い思いや感情を、観る側にも共有できるものとしてくれる。薬による沈静も拘束とも無縁のまま、人々とつながる生活を、簡単に諦めなくてもいいのだと励ましてくれる。単なる老化現象と誤解されることが多い認知症は、早期の治療や適切な対応によって症状に差が生じる、たとえば癌のような病気である。残念ながら、今のところ絶対的な治療法は無いという。すでに身体的・精神的機能が衰えている、と思われている高齢の患者は、病気による脳の障害と気づかれないままのこともある。また、体力もあり、元気に動き回る若年認知症の患者は、個々の対応の難しさから、受け入れてくれる施設も限られてしまい、在宅で、介助家族をも当事者としながら、さまざまな困難を抱え生活している現実がある。

病識のある患者の悩み・苦しみへの対応も立ち遅れ、人権尊重の上からも、その人を中心にした介護の必要性や、社会的な支援が強く求められる状況が生まれている。医者や専門家の知識を仰ぐこととは別に、この映画を見た一人ひとりが、自分が同様の障害をもつときに、何をしたいか、周りに何を期待するか、どうすればどういう状態になっても安心して生きられる社会になるのか、を考えていくことで、「明日のケア」が大きく違ってくるように思う。

(かみぬまみゆき 特定非営利活動法人若年認知症サポートセンター)

【殯の森】公式HP
http://www.mogarinomori.com/「殯の森」の全国の上映劇場・スケジュールは前記の公式HPに掲載されています。

【参考文献】

1)『萌えの朱雀』仙頭直美著、幻冬社、1999

2)『若年認知症―本人・家族が紡ぐ7つの物語』若年認知症家族会・彩星の会編集、宮永和夫編集代表、中央法規、2006

3)『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと パーソンセンタードケア入門』トム・キッドウッド キャスリーン・ブレディン著、高橋誠一監訳、寺田真理子訳、筒井書房、2005

4)『老いの心を知る 老人を支える人たちへ』三宅貴夫著、保険同人社、1987

5)『明日の記憶』荻原浩著、光文社、2004

6)『誰?―WHO AM I ?』渡辺謙著、ブックマン社、2006