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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年7月号

文学にみる障害者像

大原富枝著
『忍びてゆかな 小説津田治子』
─不幸の台地に芽生えて

杉野浩美

『忍びてゆかな 小説津田治子』の著者大原富枝は、治子より1歳年下で、少女期に母を亡くし、結核で長い闘病を経験している。

大原は境遇の似た治子に特別の思いを抱いたのではないか。代表作の『婉という女』も悲運の女性を描いている。

本書は、信仰と短歌を生きがいに、不幸な運命を誇り高く生き抜いた津田治子の生涯が一人称で描かれ、聖書の抜粋と、治子の短歌作品の多用が特徴である。タイトルは〈現身(うつしみ)にヨブの終りの倖(しあわせ)はあらずともよししぬびてゆかな〉この治子の代表歌から採られた。

明治45年、佐賀県松浦郡呼子町に生まれた治子は、亡くなった母に似た美しい娘に成長する。母に似る自分の容姿が誇りだった。初恋の相手は病気を知ると去り、姉も家出して消息を絶つ。18歳で癩(らい)病の宣告を受け絶望して劇薬を飲む。自殺は未遂に終わるが、症状は一気に進み、顔は潰瘍に塗れ、手の指は内側に曲がり右目は失明してしまう。父は警官に療養所行きを責められ、世間体と人目を恐れる娘のために、家の裏の崖下に小屋を作る。息を潜めて、読んだ物語の主人公に、自分を置き換え夢想することだけが唯一の救いとなる。

昔からハンセン病は癩病と呼ばれ、外見上の変形が、病気に対して無知の人々の恐怖心と妄想を煽り、天刑病だ遺伝病だと恐れられてはいたが、明治以降からの強制隔離政策が、さらに偏見と差別を増長したのである。その根は深く、黒川温泉の宿泊拒否事件があったのは、つい5年前、平成15年のことだ。

23歳になった治子は、熊本の「回春病院」に入院する。本妙寺で物乞いをする病者を救済しようと、イギリス人の伝道者ハンナ・リデルが明治28年に設立し、リデルの死後、姪のライトが引き継いでいた。

治子はここで、信仰と短歌、そして同病歌人伊藤保、生涯の友となる志村さえと出会うことになる。小屋に迎えにきた池本医師から教えられたイザヤ書の一節から、「病んで醜い自分だけが浅ましいのではなくて、人間というものすべてが浅ましいのだ。」と悟り信仰に目覚める。この一節は、生涯彼女の心の支えとなった。さえとの友情によって、人に心を開いて生きようと思うようにもなる。

昭和12年には、青年寮の田中光雄から薦められた「檜の影短歌会」に入会、本格的に作歌を始める。「短歌誌を通してだけ健康人と対等な世界を私たちも持つことが出来る。」と、封印していた思いを三十一音に吐き出していった。

「檜の影短歌会」は、九州療養所に大正13年内田守人医官によって発足され、短歌俳句集「檜の影」を発行、作歌活動が盛んになる。

短歌形式は治子の資質に最も合っていたのだろう。続いて短歌結社「アララギ」に入会した彼女の歌は早くから注目される。治子の歌に惹かれた「檜の影」の伊藤保が、九州療養所から訪ねてきたのは、早春の宵で、保27歳、治子29歳であった。短歌への思いを熱く語る保に好印象を持つ。もみじ山の麓まで送って行った甘美なひとときは、互いの忘れえぬ想い出となる。

従ひて行きとどまれば山の上に物の音なく月澄みわたる (治子)

逢ひ得たる夜にときじく零(ふ)る雪の汝(なれ)が額髪(ぬかがみ)に深くとどまる (保)

治子は自身の作歌方法として、自然観照と写生に徹し、肉体や主観の世界は詠むまい、自分は心の真実を歌っていこうと決めていた。

29歳になって、生涯の住処となる九州療養所へ転所する。九州療養所は、明治42年開所。熊本市中心より12キロほど北の黒石原に位置し、東に阿蘇山、西は金峰山を望む風光明媚な土地ながら、寒暖の差の激しい荒れた火山台地である。高いコンクリートに囲まれ、黒黒と繁る檜の森の中に、沈んだような療養所には留置場があり、病友のために魚を買いに塀の外へ出ただけで監禁された時代であった。

男女別の寮のうち、治子は25畳敷きの大広間に10人と同居する。ここでは看護されるべき病人たちに、重症者以外は男女問わず、僅(わず)かな賃金で何らかの作業が課せられ、そのために症状が重くなる人もいた。

16年、療養所は「菊池恵楓園」と改称されて国の管轄になる。第二次世界大戦へ突入以後の戦中戦後の動乱期、園ではすべての物資が不足し困窮状態に陥る。誰もが生きるために必死で働くなかで、治子は手の悪い自分にできる僅かな作業のほかは、読書と短歌に熱中した。2歳年上の菅原よしのは、そんな治子に向けられる苦情の矢面に立って庇った。

治子は二度結婚している。いずれも彼女の方から動きかけての結婚だったが、願った小さな幸せは実らなかった。最初は33歳のとき。端正な男らしさに惹かれた夫とは雑魚寝の女の寮に夫が通う通い婚だった。23年新薬プロミンが使われ始めた頃、夫の容態は急に悪化、重症の気管支炎に心も蝕まれ死んでいった。

その間に右足を切断し義足になった保は、25年、第一歌集『仰日』を出版して反響を呼ぶ。中の「三月雪」4首は、治子に10年前のあの一夜の熱い息吹きを蘇らせた。

園内の生活がNHKによって放送され、人権回復が叫ばれ、園では一千床拡張工事が完成、夫婦舎もできた。患者作業も一部は職員に移されて、活気を帯びた風が吹きはじめた頃、地元の黒髪小学校の父兄たちが、患者の子どもの入学を拒否する事件が起こる。長く拗(ねじ)れたこの事件は、子どもたちに深い傷跡を残した。

「檜の影」の中心になった治子と保は、編集で毎日のように顔を合わせ、短歌ではライバルで口争いもするが、精神的に強く結ばれていた。保は若い妻と別れて、治子と共に短歌に命を賭けて、残る人生を生きたいと考える。治子は、取り戻した時間のすべてを短歌に懸けたいと思っており、保を受け入れる決心がつかないまま再婚を決める。父のようなこの人なら、読書も短歌も邪魔せずにさせてくれる、それだけを望んで選んだ夫は、20も年上であった。静かで平穏な日々は、ラジオの尋ね人の時間から、台湾で別れた夫と家族との交流が始まり、小さな幸せはまたも崩れる。

昭和30年1月、保と吟味して選んだ717首を収めた『津田治子歌集』が出版された。

治子は特殊な境涯を生きる女歌人として世の注目を浴び、文学青年たちが訪れるようになる。また長い間人に見られることを恐れた瞼(まぶた)の手術が成功、心が解放される。

いたづきの三十余年ありしのみどう思ひても涙のにじむ

と歌っていた彼女が、

いまはわが病む身ためらはず眼をあげて光波うつ茅花野をゆく

うかららを恃まず生きて来し吾のさびし大方の苦にたぢろがず

と歌うようになった。

昭和38年6月、治子は突然腹部の激痛に襲われ、癌性腹膜炎と判明する。激痛に苦しみ、視力も失せ、何も咽喉を通さなくなる一方で、研ぎ澄まされる意識に、刻み込んだ23首を次つぎに読み上げた。それは推敲の余地のないほど、どれも一首として完成していた。

9月29日の朝、結核が重くなり絶対安静であった保が、付き添いもなく自ら車椅子を漕いできた。30分ほど居た保は、治子と何を話したのか、神が知るのみである。治子は、翌30日51歳の苦難の命を終えた。

命終のまぼろしに主よ顕ち給へ病みし一生(ひとよ)をよろこばむため

50日後、歌友たちが花を飾り、治子の五十日祭の準備をしていた広間に、奇しくも保の柩が担ぎこまれてきたのである。

信仰と短歌の太い柱が自信を与え、おどおどと人を恐れていた治子の精神を強靭に育てあげ、そして天性の資質と感性、読書から培われた言葉が修練によって、現実を詩に昇華させた。「短歌誌を通してだけ健康人と対等な世界を私たちも持つことが出来る。」を見事に結実させたのである。

著者は悲惨なハンセン病者という視点を超えて、逆境に流されず、懸命にひたすらに、しかも強かに生きる人間として描いた。そこから何を学ぶべきかを投げかけている。

菅原よしののモデル畑野むめさんは、現在98歳。一昨年までは現役歌人であった。背筋をぴんと伸ばして誇り高い精神は今も健在である。

今年の春、訪れた恵楓園の納骨堂には、保と治子の小さな白い骨壷がひっそりと寄り添っていた。

(すぎのひろみ 短歌文芸誌「ぱにあ」創刊同人、同編集部員)