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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年8月号

文学にみる障害者像

チェコアニメ
『ワンナイト・イン・ワンタウン』
(監督ヤン・バレイ)

本間ちひろ

私は、いま、絵本や童話を書く仕事をしているが、この道に進むきっかけとなった作品がある。ヤン・バレイの「ワンナイト・イン・ワンタウン」。チェコのアニメーションである。

2000年に発表された27分の作品で、3つの小品オムニバスで構成され「ある町のある夜の風景」が描かれる。この作品を映画館で見て、私はチェコアニメファンになったのであった。「チェコアニメ新世代」(発売元・コロンビア ミュージック エンターテイメント)というDVD3本セットの中に収められており、また、『チェコアニメ新世代』(エスクィア マガジン ジャパン)という本も併せて出ている。最近は、他にもチェコアニメ関連の商品が多く発売されているので、チェコアニメファンにとっては、うれしい限りである。さて、「ワンナイト・イン・ワンタウン」の内容を少しご紹介しよう。

第一話「耳」

ランプ係が、街頭のランプをつけると、町は夜。アコーディオン弾きの男が、薄暗い街角でアコーディオンを弾いている。が、どうも、和音が美しくない。スケッチブックを持った男が、通りすがりにアコーディオン弾きの前に何かを落として、去っていく。通りすがりのヴァイオリン弾きが、同じメロディをからかって弾き、アコーディオン弾きの耳を指差し、去る。ヴァイオリンのメロディの美しさに、見ているものは、アコーディオン弾きの耳が悪いことがわかる。

家に帰ったアコーディオン弾きの男が小銭の入った箱をテーブルの上に開けると、小さな紙包みが出てくる。アコーディオンを弾くと、紙包みがカタカタ動き出す。包みを開くと、切り取られた耳が出てくる。男は、鏡の前に立ち、引き出しからかみそりを取り出すと、シュッと自分の左耳を切り取り、窓の外に投げ捨てる。そして、黒い糸と針で、紙包みの中に入っていた耳を自分の耳のあった場所に、縫い付けるのだった。縫い付け終わった耳を触ると、痛さに気を失い床に倒れる。しばらくすると、気がつき、またアコーディオンを弾くが、相変わらずのままだった。レモンの鉢植えにアコーディオンを投げつけると、レモンの実が一個落ちる。すると指が勝手に動き出し、黒い鉛筆でテーブルの板にデッサンを描く。描かれたのは、川沿いの船。次いで、壁一面に跳ね橋の風景。色がつくと、その色彩から、耳の元の持ち主が想像される。男は、棚から一冊の画集を開く。本の表紙には「VINCENT」の文字。壁の絵と同じ「アルルの跳ね橋」のページが開かれ、また、ページをめくると、「耳に包帯を巻いた自画像」の絵のページが開かれる。

男は、耳に手をやり、宙を見つめる顔が映し出されて、この作品は終わる。

第二話「止まった時間」

カフェの前で待ち合わせをしているらしい男が、カフェの中の人影に連れて、店に入る。客は誰もおらず、珈琲とピアノの演奏を頼むと、店のマスターは、コインを自動演奏のピアノに入れる。音楽が流れると、さまざまな客が現れ、そして、音楽とともに、消える。窓の外に、女の人影を見つけて、男は急いで、店から出て行く。

第三話「魔法の精(ジン)」

バイクに乗った2人の男が町をさまよっていると、ジンの瓶から魔法の精が出てきて、酒、タバコ、食べ物、そして官能的な世界……2人の望むものを次々と出していく。ランプ係が街頭のランプを消す、酔っ払った2人が眠りこける頃、町に朝がやって来る。

この3つの小品は、第一話で窓の外に投げられた耳を、第二話では、道端で犬が拾って食べ、第三話でも、第二話のカフェの中がちらりと写り、第三話の男は、第一話で道端を通り過ぎ、同じ街角のストーリーとして、絡み合っている。そう、町というものは、知らぬところで関わり合い、すれ違う、終わりのないオムニバス映画なのだ。

私は第一話「耳」が好きで、先にも述べたように、創作というものを考えるきっかけとなった。

第一話で、痛さに気を失っている間、象がゆっくりと空を走るシーンが挿入されるが、『チェコアニメ新世代』に紹介されているインタビューで「空を飛ぶ象というイメージには何か意味が込められているのですか。こうしたイメージはどのように思いついたのですか?」という質問に、ヤン・バレイは「子どもの時、夜に窓の外を眺めていたら、よく夜空をゾウが飛んでいました。ただそれを、記憶から取り出しただけです。その他に登場するものと風景もすべて私の記憶から取り出したものです」と、話している。

人には、自分に与えられた感覚というものがあり、同じものを見ていても、完全に同じに感じる人は、いない。その上、ヤン・バレイのこの「象」のように他人には想像を絶する個人の内面の幻想の世界もあるのだから、もう、障害のあるなしに関わらず、もう本当にさまざまなものなのだ。

第二話は、今のこの時を大切にしようと思う感覚が残り、第三話では、どうしようもない飲んだくれの姿に、なんだかんだいっても、人生、もっと気楽に生きようやという気分になる。

漠然と創作というものを志してはいたが、自信がなかった学生時代の私にとって、この映像詩「ワンナイト・イン・ワンタウン」に、音が苦手なら、絵で表現すればいい、という表現の大前提に気づかされたのだ。では、音も絵も苦手なら……。そう、言葉がある。

言葉が苦手なら、ゆっくりしゃべればいい。知っている好きな言葉を並べれば、詩が生まれるのだ。というわけで、私は、詩を書き、童話を書くようになって、今に至る。

話は、ちょっと変わるが、先日、眼の見えない方が、迷っていらっしゃるようだったので、駅まで道案内をしたことがあった。道を説明しながら歩いていたら、突然、私の中の音や匂いの感覚が鮮烈になった瞬間があった。自家焙煎の珈琲店の前を通って、トンカツ屋さんの角を曲がり、パチンコ屋さんの音楽が聞こえてくると、もう、駅はすぐそこなのだということが、説明をしなくても、その方には分かると言うことが、共感できたのだ。それまで、特に愛着もなかったそれらの商店街の匂いと音の世界が、道案内をすることによって、私に輝いてくるようになった。

人は、自分の感覚で認知された世界を生きているが、他人の持っている感覚は、非常に興味深いものである。その人がそこから何を見ているのか、何を聞いているのか。そして、見えないからこそ、見えるものがあり、聞こえないからこそ、聞こえるものがある。

言葉の世界ならば、五感の感覚に関わらず、感じ、表現をすることができる。詩を書くことは、職業詩人だけのものではなく、より多くの人が日常で楽しむようになるのが理想だと、私は思う。

そして、最近では、絵を見ることのできない子どもたちにも、絵本の楽しみを伝えることができるのではないかと思い、音楽で絵を描くということを模索しており、私が絵を描いた宮沢賢治の絵本『注文の多い料理店』(にっけん教育出版)の絵をスクリーンに映しながら、津軽三味線の小山貢琳と絵本朗読をしているが、この夏の図書館での公演では、子ども向けの企画とはいえ、大人のお客様もたくさんお出でいただいた。1歳から90過ぎのおばあちゃままでが、一緒に絵本の朗読を楽しむというのは、何ともうれしいことである。

チェコアニメの話から、だいぶ離れてしまったが、とにかく、音楽、絵画、物語、映像、あらゆることを駆使し、あらゆる人が同時に楽しめるアート作品が、もっと創作されるようになるといい。それは、あらゆる感覚の人がその人なりの表現を楽しむことが日常的になってこそ、成り立つ。そんな日本のアートシーンを期待しつつ、この稿を終わろうと思う。

(ほんまちひろ 絵本作家・詩人)

ヤン・バレイ 略歴

1958年、5月30日、プラハのジシコフで生まれる。1988年プラハ工芸美術大学卒業。1988年パリの国立高等装飾美術学校に留学。デザイナー・アーティスト・脚本家・アニメーション映画監督。トルンカスタジオで人形造形のデザイナーとして参加した後、1990年にミロスラフ・シュパーラ、ペトル・フォルマン、マチェイ・フォルマンとともに、ミロシュ・フォルマン監督の助力を得て、ハファン・フィルム・プラハを設立。「ワンナイト・イン・ワンタウン」で、各国の映画祭で高い評価を得る(ブラジル国際アニメーション映画祭・2001ベストヴィデオ賞、イギリスのノースリッジの国際アニメーション映画2001で国際映画最優秀賞、メキシコのハリスコの国際映画祭2001でThe President賞等)。