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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年11月号

列島縦断ネットワーキング【福島】

鮫川村たんぽぽの家の挑戦

白岩八重子

分場から始まったたんぽぽの家

鮫川たんぽぽの家は平成10年4月に、福島県南部過疎の進む山間部鮫川村に分場として開設された。法人本部は約40km離れた西郷村にあった。同じ村でも西郷村は、2万人に手が届く人口増加現象にあり、首都圏に通勤可能な立地条件である。一方鮫川村は、過疎化が進み人口は4500人を切って減少傾向にあり高齢化が進んでいた。あまりにも違いすぎる環境下で障害をもつ方が地域移行をしていくために新たな法人の設立が必要とされていた。

当時筆者は本場で一人の事務員として勤務していた。分場が開設されて3年が経った13年1月半ば、理事長から分場への移動の打診があった。主な目的は、分場から法人を設立し地域に合う施設を作ることであった。深く考えることもなく二つ返事で引き受け、4月から移動することになった。分場へは43km、約1時間かけての通勤となるが、私自身四季を感じながら通勤すればいいかと軽く受け止めていた。いざ初出勤してみると思いと現実は大きく異なり、朝から晩まで下請け作業の毎日で、納品に追われる日々。夢も希望も感じることはできなかった。

借金からの出発―新法人設立

新法人設立に関しての通達は、すべての財産は法人本部に戻すことであった。車はもちろん職員室の机、椅子、食堂のテーブル、ロッカー、はては電気ポットまで何にも無くなった。利用者さんから「明日からどこでご飯食べるの」「どこに洋服おくの」「車はどうするの」と次々質問攻めになるなか、切なさで胸が満杯になった。ただただ涙は流すまいと必死の自分がいた。いわゆる何かを始めようとする時はゼロからだと自分自身に言い聞かせてはみてもゼロからならまだ良い。車・パソコンを買い、運転資金と合わせ600万円の借金を背負ってのスタートになった。「さあ頑張らなければ」と空元気で自分で自分を励ましての日々だった。

下請けから自分たちの製品で勝負

平成15年4月1日、分場から生まれ変わっての初日である。利用者、職員に目標を定め歩むことを確認しあった。

第一の目標は、下請けを減らし、自分たちで原材料を作り加工品を立ち上げること。その加工品はみんなで1本1本売り歩くのではなく、大手スーパーに大手メーカーと肩を並べ陳列ができるような商品を作ること。第二の目標は、自分たちの直営店を構えること。第三の目標として、自分たちの働く場所を兼ね備えた施設を建設すること。

当時の施設は急傾斜地の危険地域に指定された場所にあり、鮫川村所有の築40年をはるかに超えた古い建物であった。暑かろうが寒かろうが必死にみんなで同じ方向を向き働くことを約束して歩み始めた。自分たちでできることは自分たちで行い、どうしても必要な時だけ援助してもらうということで前へ前へと進んだ。

じゅうねんドレッシングで福島県特産コンクール大賞受賞

下請けをしていた頃と比べると利用者の目は輝き、心身共に安定感が増し、後ろ姿に力強さが感じられるようになってきた。どこのだれよりも働く職員に遅れまいと必死について来る利用者の後ろ姿を見ることができた。これなら大丈夫と思い、15年には自ら栽培したえごまと梅を使い、ドレッシング3本セットで福島県特産品コンクールに出展し大賞をいただくことができた。大賞を受賞したことで販路は大きく開け、大手スーパーの棚に大手メーカーの商品と肩を並べることができた。まず第一の目標をクリア。反面これは本当の実力かと疑う自分もいた。翌年、再度の挑戦で優秀賞を獲得し、さらに加工品への意欲がかき立てられた。

そうこうしているうちに月日の流れは速く、17年度の事業計画書を作る時期が来た。当施設で働く職員は愚痴を言うこともなく黙々と働いてくれた。利用者は、その後ろ姿を見てついてきているのだとますます実感させられた。

うどん屋「までいに家」のオープン

人は、自分の好きな仕事をするのが一番頑張れるし輝いていられると思い、職員に担当したい作業を聞き配置することにした。幸いにも重なることもなく、希望通りの作業を担当し、それぞれが事業計画書を書いた。また予算書も提出させ、その決裁権も与えた。言わば小さい会社の経営者である。

その作業の一つに原材料になる野菜を作る班があり、販売先を探してほしいという要望があった。その言葉が引き金になり手打ちうどん「までいに家」のオープンとなった。言うまでもなくさまざまな方の「社会貢献だから」という心からのご支援をいただいたお蔭である。テレビ、新聞、冊子等に施設全体が取り上げられるようになり知名度も上がり、私自身にも講演の依頼が来るようになり「恵まれている」ことを再認識させられた。本当に数多くの方々に支えられての歩みであった。

第三の目標、施設建設

平成18年4月、鮫川村にも鶯(うぐいす)の声が聞かれ、長かった冬から春への訪れを感じられる頃、ようやく施設建設のチャンスがきた。クリアしなければならないことは山積していたが、このチャンスの鳥を捕まえなければ二度と私の前には飛んでは来ないだろうと思い、第三の目標である施設建設に踏み切った。

平成19年2月15日、地鎮祭の日が来た。前日の雨は上がったが、体の芯から寒さを感じるような日だった。私たちの門出にふさわしい日とは思えぬ寒さである。昨日からの雨が足元からじわっと湧き出、後ろに整列している彼らのことがとても気になる。この寒さと厳かな神事に緊張しているのか話し声も聞こえず、ただただ祝詞の声が響く。式次第に則(のっと)り順次に進む中で、玉串奉納が行われた。司会者が「利用者代表森田修一郎とその関係者」と読み上げると森田さんが私の前を通った。その足が昨日からの雨で緩んだ地面にわずかだが一歩一歩沈むのが感じられた。前に出て宮司から玉串をいただいて奉納するその後ろ姿は一糸乱れぬ不動の姿勢。その姿を見ていると走馬灯のように思いが走り、胸からこみ上げて来る熱いものを感じた。決して障害者ではない一人前の好青年になった森田さんがそこにいた。6年間の年月でこんなにも大きく成長できたのも、彼自身の持つ純真な心、素直な気持ちが礎になり砂が水を吸うように知識、技術が身につき今の彼が形成されたのだと思う。そして何よりも自分自身で育む努力をしてきたからだ。今日の佳き日を門出にそれぞれが自分に合う道を選び、あせらずにそれぞれのペースで社会自立へと繋がりますようにと念じた。

これからどんな日々が待っているのか、施設のこれからのことを考えるとまさにこの緩んだ地面である。毎日どんよりする日々であればいつも泥沼、少しずつでも太陽に当たれば地面は固まる。しかし、それはどんな形にも作ることできる。きちんと型紙を作って型通りに固めるのか、自分なりに好きな形を作るのかこれからが正念場である。太陽がさんさんと降り注ぎそれぞれが思い思いの形をつくるであろうと、心の中で思っていた。

現在、施設では新体系に移行し、就労移行支援(半生うどんの大型ラインの稼働・直営店でのフロアーサービス・加工品製造)、就労継続支援(加工品用の原材料生産)、自立訓練(日常生活における訓練・受託作業)とそれぞれが自分に合った道を選択し歩み始めた。

就労移行支援の道を歩み始めた7人は就労が叶わなかった場合、必然的に就労継続支援への道へと変更となる。鮫川村においてはその可能性はかなり高いのが現状である。この壁を打破するためにも施設自体が社会企業家になり、職員の社会的使命感の真髄が社会的企業の旗を掲げ利用者を導いている。有能な職員と確実な歩みでついてくる利用者に囲まれた私は、日本一幸せな施設長であることは言うまでもない。

(しらいわやえこ 鮫川たんぽぽの家施設長)