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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2009年10月号

文学にみる障害者像

太宰治著『桜桃』

桐山直人

太宰治は1909年青森県生まれ、自らの荒れた生活や生きる哀しみ、自分が悩む姿をも作品にした作家で、1948年自死している。

作品の中の痩せこけた子

死の年に発表した『桜桃』は、太宰と名乗る作家が主人公である。妻と口げんかして家を飛び出して、酒屋で桜桃を食べる話で、冒頭は太宰の成句として有名な「子どもより親が大事、と思いたい」である。太宰は子どもに関して葛藤・苦悩を抱えていたようである。この作品の中に次のような記述がある。

4歳の長男は、痩せこけていて、まだ立てない。言葉は、アアとかダアとか言うきりで一語も話せず、また人の言葉を聞きわけることもできない。這って歩いていて、ウンコもオシッコも教えない。

太宰には3人の子どもがいた。

  • 1941年生まれ園子
  • 1944年 正樹
  • 1947年 里子(津島佑子)

『桜桃』は1948年5月発表、作品内の4歳の長男は、ちょうど正樹の年齢と重なる。また、『ヴィヨンの妻』(1947年)には次の記述がある。ここでも坊やの年齢が合う。

坊やは、来年は4つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその2つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ―

わが子ながらほとんど阿呆の感じでした。

太宰の長男は、どのような子どもだったのだろうか。

津島佑子の手記から

太宰の次女里子は、作家津島佑子である。津島は書簡集『山のある家 井戸のある家』(集英社、2007年)に、兄の正樹さんのことを次のように記述している。

ダウン症の兄(39頁)

15歳―やっと口で簡単な意思表示ができ、ごく限られた文字と数字が書けるようになっていました(108頁)

ちょっとした痛みに襲われたりすると、兄はもう私の手には負えなくなり(111頁)

これにより、津島の兄=太宰の長男はダウン症で、知的障害、行動障害があったことが分かる。『桜桃』『ヴィヨンの妻』に登場する男児の記述は、太宰が生活を共にした、ダウン症の息子の発育状態を元にしたものであったと思われる。

障害の子どもの受容過程

障害をもつ子を前向きに受け止めて、共に生きていこうとすることを「障害をもつ子を受容する」と言う。そこへの過程は、研究者によって違いがある。しかし、親はいくつかの情動的な反応の段階を経るという共通性があり、たとえば、第一段階ショック、二否認、三不安、四適応、五再起という指摘がある。これを手掛かりに『桜桃』を再読すると、ショック段階をもたらす障害の診断がなく、太宰は否認・不安状態にあり、しかし適応している面も見受けられる。

4歳までの間に、どのようなことがあったのだろうか。作中の太宰と現実の太宰を一体の者とすると、以下のように考えることができる。

『桜桃』の中の喜び=適応

物語は、5人家族の「大にぎやか、大混乱の夕飯」場面から始まる。夕食後に、太宰は仕事部屋へ行きたい。妻は重態の妹の所に行きたい。言い争って、太宰は酒屋に出かけてしまう。酒屋で桜桃が出た。子どもたちを思い出して次のようにつぶやく。

父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。

桜桃を見て可愛い子どもたちを思う。子どもに楽しい思いをさせてやりたい。かけがえのない大事な子どもの笑顔は、親にとって大きな喜びである。子どもと生活する太宰の喜びを、丸く可愛い桜桃の赤色が表現している。太宰は、3人の子ども思いの父親であったことだろう。

父の願い=否認

子どもが3歳になって言葉が出なかったら、それはあまりないことであり、まして4歳になっていたら、障害を疑う。

父も母も、この長男に就いて、深く話し合うことを避ける。白痴、唖、……それを一言でも口に出して言って、2人で肯定し合うのは、あまりにも悲惨だからである。

太宰は、知的障害か言語障害か、と疑っているが、その疑いを内に秘めたままである。病名や障害名が出てこないのは、診断を受けていないためだろう。診断されていれば「唖」と疑うことはない。診断による障害の告知を受けると、その事実の重さからショック状態になる。しかし、その後に不安や否認段階となっても、事実を理解すれば、対応や将来的な予測も立つ。太宰は診断の次に来る「あまりにも悲惨」な状態を予想している。妻と話し合うことを避け、診断を留保して障害に立ち向かうことを避けているように見える。

ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけの事であってくれたら!この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を憤り嘲笑するようになってくれたら!

成長の遅れであることを願う気持ちは、障害の否認である。大事な子どもであるだけに、障害の事実を受け止められないのである。障害の診断と告知があったなら、太宰により大きな不安をもたらしたかもしれないが、適切なアドバイスが伴えば、否認の段階を乗り越えることができたのではないだろうか。

心中=不安

死によって問題解決を図ろうとする心理は、見通しが持てない不安によるものである。

母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み死んでしまいたく思う。

太宰も妻も相談する相手がなく、子どもを個人で「抱いて」いる。敗戦直後で、障害児医療も福祉もない時代であった。他者に相談する、頼る社会資源はなく、そういった発想もなかった。

ダウン症は、1862年イギリスの眼科医ジョン・L・ダウンが、その特徴的顔貌を捉えて蒙古人症と称して学会発表している。染色体の形成異常であることが発見されたのは1959年。WHOが「ダウン症候群」を正式な名称としたのが1965年で、それは『桜桃』発表から17年後である。太宰夫婦に、子どもを適切に診断してくれる医師がいたら、育児や教育について相談できる人があったら、不安は縮小し、死に至らなかったのではないだろうか。

受容の可能性=希望の糸

子どもより親が大事と思い切れず、桜桃を見て子どもを思う愛情がある太宰である。障害の息子を受容する可能性を備えた父親だったと思える。それを証左するものがある。小説『パンドラの匣』(1945年)に、ギリシャ神話を紹介しながら、次の記述がある。

人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。

しかし、太宰は希望の糸を見つけることができなかった。太宰自身が胸の病に冒され、子どもの障害と自分の病気と、二つに立ち向かう力が残されていなかったのではないか。

(きりやまなおと リハビリテーション史研究会)