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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年3月号

文学にみる障害者像

清水哲男著『死亡退院』

関根千佳

重い本である。物理的に、というのではない。かばんの中にあると、それだけで敏秀という稀有な存在を感じる。彼が生きた証、人生のすべてが、この本に折り畳まれて入っているかのようだ。

まず題名がコワイ。「死亡退院」。最初に著者の清水哲男氏に送って頂いたとき、モノトーンの表紙に浮かぶこの言葉に、胸がじりっと焼けるような気がした。そうだよね、筋ジスは、死なないと外に出られないんだもんね。しばらく忘れていたはずの、敏秀の顔が浮かぶ。彼の声、彼のまなざし、骨と皮になった細い体。でもなんだか、とてつもなく大きな存在感があった。

轟木敏秀。7歳でデュシェンヌ型筋ジストロフィーを発病し、35歳で他界する。この本は、彼の最後の1か月、特に最期の12日間を、生まれてからの35年のエピソードをはさみながら記したものである。

写真集でパソコンを使う敏秀を見た著者は、ホームページからメールを出す。それは著者が、鹿児島に移住するきっかけにもなった。亡くなる1年ほど前のことだ。メールでのやりとりを経て、実際に会いに行く。敏秀は、鹿児島県加治木の南九州病院に長く入院していた。父を早く亡くし、母が一人で大変苦労したこと。兄も同じ病気で早く亡くなったこと。わがままで手のかかる子どもだったことが語られる。

このわがまま、というのが、本書の中を流れるキーワードになっている。彼のように、ほとんど自分で体を動かすことのできない重度障害者が、「体位を変えて」「アンビュー(手動呼吸)をして」と二六時中、周囲に頼むことは、果たしてわがままだろうか、と著者は問いかける。もちろん、著者も外泊の際には、一晩中、5分おきに何かの依頼があり、まったく眠れない状態になってぶつかりあう。だが、敏秀はいうのだ。

「すまないな。だって目を閉じて寝るのがこわいんだ。そのまま死んでしまうんじゃないかって……」

彼は子どもの頃から、我の強い、意地っ張りだった。従順な兄に比べ、手がかかるとよく批判された。父や兄が亡くなったときも、泣けなかった。だがそれは、彼が最後まで、自分というものを確立しようとして、闘い続けていたことの証なのだ。

病院の中では、すべてが時間通りに動くよう決まっている。自分で選んで何かを為すということの自由は、それほど多くない。だが彼は、その中であっても、自分を、自分の選択を押し通そうとする。他者にとっては、手のかかる、わがままに見えたかもしれない。それは彼の「ここで生きたいように生きるには、骨が折れるんだよ」という言葉に象徴される。

作者が食事介助をするシーンが印象的である。敏秀は、好きなはずの冷やし中華を食べようとしない。理由を聞くと、敏秀は答える。「麺が……」「麺がまずいの?」「切ってあるでしょ」食べやすく、と細かく切ってあった麺に、彼はいら立っていたのだ。

「食べやすくしてあるんじゃないよ。」あいつはちょっと不機嫌だった。「食べさせやすくしてあるんだ。細切れの麺なんて、食べてうまいと思うかい?食べてごらんよ」

食べやすく、という配慮が、介助される側の食事の楽しみを奪っているということに、介助者は気づかない。介助する側にはわがままと映るものが、介助される側にとっては、ぎりぎりの自尊心なのかもしれないのだ。これは、だれにでも使いやすく、食べやすくと、ユニバーサルデザインを進めている私にとっても、重い課題となった。

好きな食事を選ぶことをはじめとして、自己選択、自己決定の幅が限られてしまうのが療養生活である。だが、南九州病院は、患者に学ぶという姿勢の福永秀敏院長のもと、生きる意味を見つけ、素晴らしい絵や短歌を生み出す人も多い。日本の中ではもっとも自由に生きられる療養所かもしれない。

「生きがいも、苦悩も、全て病棟にある」これは福永院長の言葉である。人工呼吸器を付けて、24時間介護の状態では、在宅での療養は難しい。特に彼のように、戻るべき家がない状態では、外出や外泊は、ほとんどできない。物語は、彼の、他者と関わりたいという深い渇望感を描き出す。病院のベッドという狭い空間で生きながら、心ははるかに遠くまで旅をする。若い頃は、アマチュア無線だった。南極と交信できたときは胸が震えた。長じてからは、パソコン通信やインターネットがそれに替わった。メディアにも登場し、多くの人とネット上で会話するようになる。

彼の死が近づくにつれ、関わりのあった多くの人々が病室を訪れるなかで、友人たちを通じて、彼の人生が語られる。病室の周囲を見渡す装置を作って彼に届けた、当時横浜市総合リハビリテーションセンター(現早稲田大学)の畠山卓朗氏や、当時リコー(現筑波技術大学)の岡本明氏との交流は、リハビリテーションエンジニアと呼ばれる人々の間に、当事者と共に技術を開発するという姿勢を生んだ。重度の障害をもつ人々こそが、最もよくニーズを把握している。だから技術者は、彼らから学ぶのだ、という姿勢である。これは、人間中心設計と言われる手法の中で、当事者を「ユーザー・エキスパート」としてその知見を教わるという概念に近い。当事者にしかわからないニーズを本人の言葉で語ることが、後に続く障害者や高齢者の課題を解決し、多くの人を救うのである。彼はその先駆けとなった。

ネットを通じて知り合った人の中に、岡山の看護婦、サチコがいる。メールのやりとりを通じて彼らは思いを深めていく。サチコが初めて岡山からやってくる日の、著者たちのとまどいは、微苦笑を誘う。重度障害の彼を見て、もしたじろいだらどうしよう、傷つくんじゃないか??だが、敏秀は言う。

「僕みたいな病人だから、逆に、本当に幸せになれるかもしれないよ」

その後の展開は、本書を読んでいただきたい。

実は私も、敏秀に会ったことがある。95年に「こころWeb」という障害者支援技術のホームページを作った時、当事者のIT利用の実例として彼を紹介したのである。彼のサイトには、寝たきりで筋力の少ない状態での入力方法をはじめ、出生前診断や性の問題など、なかなか当事者が口に出せない内容が満載だった。私はメールを書き、電話で話し、彼のページを作ってリンクした。97年の秋には岡本氏と一緒に南九州病院を訪ね、パソコンの再設定を手伝った。寝たままで、絡んだケーブルを全部的確に指示するので驚いた記憶がある。理由を聞くと、にっこり笑ってこう言った。「僕にとっては、命綱だからね」外界とつながる唯一のライン。その重さを教えてくれたのだ。

亡くなったときは行けなかったが、その後の偲ぶ会や霧島追悼登山には何度か参加した。彼を何10年も支え続けた福永院長、畠山氏、岡本氏、清水夫妻が、敏秀の思い出を語ってくれた。

だから白状すると、この本を読むのはつらい。特に後半の死期が迫るあたりは、彼の人生の喜びや悲しみが一気に押し寄せてくるようで、先が読めなくなり、何度も本を放り出したくなる。敏秀が、自分の生まれてきた意味、生きている意味を必死で探る。人を愛する意味を問いかける。その真摯さに、たじろいでしまう。私はこんなに真剣に、人生を生きているだろうか?命をかけて、だれかを愛することができるだろうか?

没後10年以上経った今でも、敏秀は、関係者の心に生きている。あの声、あの不敵な笑い、枯れ木のように細い手足、その指でつづるメール、そして、あの目の強い光。社会に対して、何かを告げたいと、切望していたまなざし。我々の心の中では、敏秀はまだ死んではいない。そしておそらく、この本『死亡退院』を読んだすべての人の心にも、その印象は生き続けるだろう。

清水氏は、今も鹿児島で生活している。彼が九州各地の当事者を取材した『決してあきらめない あきらめさせない』(道出版)も、障害をもつ学生や社会人の多様な人生を語っていて秀逸である。清水氏が自分のプロフィールに書く最後の言葉が好きだ。「無所属」。どこにも属さない。どんな公的な肩書きも無用。その生き方は、どこか敏秀に似ている。敏秀の矜持は、傍目にはわがままに見えようとも、常にインデペンデントであり、独立独歩であった。彼もまた、無所属の人生を生ききり、人間の尊厳を我々に知らせてくれたのだ。敏秀と清水氏、この二つの、依存しない魂の触れ合った結果が、この本に結晶したのだと思う。

(せきねちか 株式会社ユーディット代表取締役)

◎『死亡退院―生きがいも夢も病棟にある』、南日本新聞社、2004