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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年5月号

1000字提言

「社会性」を問い直す

綾屋紗月

拙書『発達障害当事者研究』(医学書院)において、私は「アスペルガー症候群」の診断基準とされる「社会性やコミュニケーションの障害」「想像力の欠如・こだわりが強い」といった定義を一度脇に置き、改めて自分の中で何が起きているのかを著しました。そして私は、私の症状を「身体内外からの刺激や情報を細かく大量に拾いすぎてしまうため、意味や行動のまとめあげがゆっくりな状態」と定義しました。

このような再定義の作業と並行して、「社会性の障害」と専門家が言う時に、絶対的に正しい存在であるかのように前提としている「社会」についても、目を向ける必要があると考えています。

過去約半世紀を振り返ってみると、先進国では物が行き渡って豊かになり、新しい需要開拓のため、商品の表面的な違いに大きな価値があると思わせるように、広告が消費者を誘導し始めました。また、次々と新しい商品を生産し続けるために、企業はすぐに生産ラインが組み替えられるような、柔らかい組織へと編成し直す必要に迫られました。そのような組織で理想とされる新しい労働者像は、無秩序な中でも、即興的、柔軟的に変化になじめるような人物になっていきました。その結果、かつて存在した、悪く言えば「堅くて変化に乏しい」、よく言えば「長期的に安定して予測、見通しのつきやすい」関係性が崩れ、めまぐるしく配置や距離を変える関係性へと突入し、それが社会全体に広まったのです。

つまり「たくさんの情報に対するこだわりを捨て、すばやく柔軟にふるまう」という態度に価値が置かれるようになり、だれもが生きづらくなった「社会」の中で、特に「情報を捨てられず大量に拾いすぎてしまうため、意味や行動のまとめあげがゆっくり」という私のような特徴を持つ人間が「障害化」したのではないか。そんなふうに私は考えています。

私は“いつなんどきも”人々と場のルールやノリを共有できない訳ではありません。変化が緩やかな慣れたモノとの関係や、暮らしを共にしているよく知るヒトとの関係においては、急かされることなく、大量の情報をひとつひとつ確認し、意味を付け合うことができます。何年もかけてじっくりと育てる人間関係ならばむしろ得意なのです。

専門家も当事者本人も、「今の社会」が正しいと信じ込み、それに合うように矯正しようとするばかりでは一方的ですし、限界があります。ゆっくりなリズムを持った人が、そのままで人々と共に生活できるような社会を構想していくことも同時に必要でしょう。結果的に、それは現代人に共通した生きづらさへの手当てになるはずです。

(あややさつき 物書き・東京大学先端科学技術研究センター研究員支援)