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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年5月号

文学にみる障害者像

岩間吾郎著『晒された名画』

鈴木雅子

1974年4月、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」が、パリ・ルーブル美術館から東京・上野の東京国立博物館にやって来た。4月20日から6月10日まで開かれた「モナリザ展」には、延べ150万人、一日平均3万人以上が訪れた。

開催前に、「混雑が予想されるから、付き添いが必要な障害者や老人、赤ん坊づれは観覧を遠慮した方がいい」との文化庁の談話が発表されると、各障害者団体はいっせいに反発し、抗議の電話や陳情が殺到した。このため、文化庁は一日だけの「身障者デー」を設けて、この日は障害者とその付き添いだけを無料で会場に入れると公表。ところが、「一日だけの特別扱いは障害者差別」とのさらなる批判を招く。そして開幕初日、一人の若い障害者女性が、モナリザめがけて赤いスプレーを噴霧した。スプレーは陳列ケースのガラス下部をかすめた程度で、モナリザ自体に傷はなかったものの、女性はその場で逮捕される。世にいう「モナリザ・スプレー事件」である。

『晒された名画』(双柿舎、1984年)は、このモナリザ・スプレー事件をモチーフにした著者、岩間吾郎の自伝的小説である。

1960年代から70年代初めは、高度経済成長のまっただ中。長く続く経済成長は、庶民の暮らしを見違えるほど豊かにした。しかしその一方で、「豊かさ」から取り残された高齢者や障害者に対する福祉の立ち遅れが、大きな社会問題になった。

このような状況の下、障害者運動が盛り上がる。とくに1970年頃からは、学生運動の一部が障害者運動に流れ込み、家庭の隅や施設に押し込められていた重度の障害者が、学生の介護を受けながら次々と運動に立ち上がっていった。モナリザ・スプレー事件が起きたのは、まさにこのような時期だったのである。

まずは、物語のあらすじからみていこう。

昭和一ケタ生まれの橋本稔は、当時の脳性マヒ者としてはきわめて恵まれた経歴の持ち主だった。日本で最初にできた肢体不自由学校から、虚弱児の林間学校、普通中学へと進み、戦後は、夜間部ながら名門のW大学に入学、大学院まで出た。卒業後は、障害者ばかりが働く電気店を開業する一方で、施設職員だった健常者の女性と結婚し、2人の息子を設けた。

稔の経営するアパートにウーマン・リブ運動のリーダー、田井奈津が入って来たのは、70年代の初めである。稔夫婦は田井を通じて、同じリブ仲間の糸崎希理子と出会った。希理子は、片足に補助靴を付けた若いポリオの障害者。“生真面目で勝気な身障処女”――これが希理子に対する稔の第一印象だった。

やがて、74年のモナリザ展がやって来る。スプレー事件を起こしたのは、その希理子だったのである。

稔はこの頃、かねてからの夢だったヨーロッパ旅行の準備に忙しかった。福祉関係者による25日間の団体旅行。美術マニアの稔は、不自由な身体を押して各地の博物館巡りを楽しんだ。

そんな稔を待っていたかのように、帰国後、希理子が稔に会いにやって来た。この時、希理子はモナリザ・スプレー裁判で係争中。「モナリザ展における国立博物館の対応は障害者差別である」という主張の裏づけとして、外国の博物館で稔がどのように対応されたのかを知りたかったのだ。希理子は、稔の口元に素顔を近づけ、言語障害で分かりにくい稔の話を一生懸命聞いてくれた。若い女性を身近に感じて、稔は心が浮き立つのを覚える。

裁判への支援活動を通して、稔と希理子は急速に近づいていった。稔は、外国の博物館を障害者の視点から実際に見聞してきた証人として、控訴審の証言台に立つ。資料集め、裁判の傍聴、支援者集めなどにも奔走した。一方、希理子もこの裁判闘争にすさまじいまでのエネルギーを燃やしていた。

希理子は、障害者とはいえ一度も養護学校に通学したことがない。小学校から大学まで、ずっと健常者のなかで生きてきた。

「普通の小学校から郊外のある私立中学へ通うようになっても、私のひとりぼっちは変りません。ビッコといじめる悪童たちはいなくなりましたが、つんとすましたクラスメイトからは完全に無視されてしまいました。もちろん体育は苦手でしたから、勉強でこんな仲間を見返してやろうと夢中でした。…思春期に入る頃から、私は鏡に映る自分の歩く姿を見るのが恐ろしくなりました。…あまりにも健常者の方へ目を向けていた結果です」

稔にしてもその青春は、「健常者」に一歩でも半歩でも近づこう近づこうという、足掻きの連続だった。一流大学に入学し、五体満足な妻と結婚。今では、小さいながらも電気店の社長になり、元気な2人の息子も中・高校生になっている。しかし果たして、稔は自分の目指す健常者化を達成することができたのだろうか。

「否である。どんな売上実績を誇ってみても、同業者たちから見れば、稔はやはり障害者であることに違いはなかった。街を歩いても、バスに乗っても、障害者は障害者だった。妻である久美の目から見ても、さらにまた、自分の血肉を分けたはずのわが子から見ても、思春期に達した今、その親は障害者として人一倍意識されている。4人家族の中のただ1人の障害者、それが稔だった」

健常者に近づくために血みどろの努力を続けた青春。そして、家族にも理解されない障害者ゆえの孤独…。それらを思うとき、稔は、重なる過去をもつ希理子に狂おしいまでのいとおしさを感じるのだった。

しかしやがて、希理子の裁判闘争にピリオドが打たれる時が来る。75年の12月、最高裁が上告却下の判決を下し、希理子の有罪が確定。科料3千円が課せられたのだ。

事件から実に1年8か月。希理子にとっては障害者の差別に取り組み、ただただ夢中で過ごした月日だった。希理子はこの判決をどう受け止めるのか…。稔は味気のない気持ちで希理子の心根を哀れんだ。

その一方で、稔は、自分の内面で何かが変わってしまったことに気づく。物語はこう締めくくられる。

「ふいに、稔は自分の年齢(とし)を思った。そして、ひとりの障害者として、これまで生きた年月、どれほど親しい人間にも閉ざされたままであった心のある部分が、堰を切ったようにあふれ出ようとした。思わず胸のあたりに手がいった。ほの暗い正面の窓ガラスに映じたその姿に、稔はじっと見入ったまま動けずにいた」

1970年代前半。日本の重度障害者たちは人間らしい暮らしを求めて街に出始め、そこで遭遇する「差別」の数々に体当たりでぶつかっていった。物語は、激しい闘争の主役たちを丹念に描き、若き運動家たちの青春群像として読むこともできる。

当時の運動参加者たちは、障害者を差別する社会を批判する一方で、そのような健常者社会に迎合して生きてきた自らの生き方をも問い直していった。希理子や稔のように、それは痛みを伴う作業だったに違いない。

あれから約35年。現在の状況はどうであろうか。当時の運動リーダー、横田弘氏はこう指摘する。「今でも差別はいっぱいある」、ところが「ある程度差別を我慢すれば楽に生きられ…最低限の生活介助は受けられる」ようになった今、「存在基盤(障害者の生きる権利―引用者)の危なさが非常に見えにくくなって」いる。それが問題だ、と。

希理子や稔の生き方は、今の私たちに何を問いかけているのだろうか。

(すずきまさこ 静岡県近代史研究会会員・障害者運動史研究者)


【参考文献】

◎しののめ編集部著『身障30年史』しののめ発行所、1978年

◎花田春兆著『日本の障害者・今は昔』(株)こずえ、1990年

◎横田弘対談集『否定されるいのちからの問い―脳性マヒ者として生きて』現代書館、2004年