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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年6月号

1000字提言

どこで死にたいか?を選べるということ

荒井隆一

先日、グループホームで、お一人の入居者さんが天国へと旅立たれた。昨年の初めに、末期がんが見つかり、主治医からは余命数か月と宣告された。本人には自覚症状は無く、自分では「本当に病気なのかしら」というような状態であった。

この時に、私は本人とこれからどうするかのお話をさせていただいた。今でも覚えているが「これからどうする?」「○○ハウスにいたい」というような本当に簡単な会話であった。今考えると、この会話が支援の始まりであった。

病気が分かってしばらく経ち、最初の変化は、行動の緩慢さから始まった。だんだんと歩く速度が遅くなり、階段の昇り降りなども辛そうになる。しかし本人は自分の病気を認めたくないのか「何ともない」と変わらないことを強調する。この頃から抗がん剤の副作用もあり、体が動かなくなって布団に横になっている時間が多くなった。今までは、道草をしても20分もあれば帰ってきた近くのコンビニへの買い物も、2時間近くかかるようになってきた。

この辺りの段階で、関係者での会議が始まった。「ハウスで暮らしたい」という本人の意思を基に、今後どのように支援をしていくか? を話し合った。

病院に入院した方が本人のためではないか? 他の入居者さんにはどのように説明をするのか? どこまでできるのか? などいろいろな話が出たが、最終的には、本人の「ハウスで暮らしたい」という想いを尊重し、関係者が協力して本人を支えていくことでまとまっていく。

支援者を増やすことや訪問看護の導入、入居者同士の支え合いなど、本当にいろいろな人たちが協力して本人の想いを尊重し支援を行った。

数か月と言われていた命だったのが、年を越すことができた。年が明けてほどなく、痛みが出始め、ほとんどが介護となる。今まで、すべてのことを自分で行っていた人が、食事、入浴、排泄など全介助の生活となる。亡くなる何週間か前に、今度はしっかりと本人と話をした。「どこで死にたいか?」と単刀直入に聞くと、本人からは「みんな良くしてくれるしここにいたいんだけど、迷惑もかけるし、入院した方が良いか悩んでいる」との話がある。その時に結論を出す話でもないし、改めて話をすることにしたまま、結局、息を引き取られてしまった。

従来、自立要件があったこともあり、グループホームで亡くなるということはまだまだ、あまりイメージがわかない。ほとんどは、支援者側の都合で、施設に戻されたり、入院となる。しかし、本当に大事なことは「本人がどうしたいのか?」であると実感した出来事である。

(あらいりゅういち 社会福祉法人ロザリオの聖母会グループホーム支援センター)