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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年7月号

時代を読む9

太陽の家の開所―保護より機会を―

1965(昭和40)年10月5日、「太陽の家」は別府市亀川に15人の入所者を迎え開所した。入所者の受け入れ基準は、「自活の道を求める強力な意思の持ち主」であった。開所して1か月で応募者数は300人を超えた。

当時の日本では障害者は「保護されるべき者」であり、生涯を病院や施設で過ごすしかなかった。

東京パラリンピック(1964年)開催の中心的人物であり整形外科医であった父中村裕(ゆたか)は、パラリンピック閉会式の場で「これからは日本の身障者は慈善にすがるのではなく、自立していかねばならない」と決意を現した。そして、太陽の家の命名者である作家の水上勉氏の全面的な協力を得て、そのわずか1年後に太陽の家開所にこぎつけた。

「世に身心障害者(児)はあっても、仕事に障害はありえない。太陽の家に働くものは被護者でなく労働者であり、後援者は投資者である」という理念を掲げた。そして、英語表記をJapan Sun Industriesとした。Industriesと複数にしたのは、日本各地のみならず、世界中に「太陽の家」を発展しようという壮大な志からであった。シンボルマークは、踏まれても踏まれても太陽に向かって伸びていく麦にあやかり「麦と太陽」とした。

父の理想は、太陽の家を完成された独立企業に持っていき、身障者の経済自立センターにすることであった。言い換えれば「障害者を税金の消費者から支払者に変える」ことであった。「太陽の家をじめじめした手工業場でなく、モーターを使いドリルがうなる工場にしたい。運営もすべて将来は障害者の手でやらせ、自分たちは影で助ける役割にまわりたい」と、経営が不安定で明日をもしれない苦難の連続の中でいつも周囲に語っていた。

今年、太陽の家は、創立45年を迎えるが、たくさんの方々の協力と理解を得て、グローバルに活動する企業と8つの共同出資会社を運営し、1000人を超える障害者が経済的に自立し、なかには障害者の社長が経営に奮闘している企業も実現した。

(中村太郎 社会福祉法人太陽の家理事長)