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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年8月号

生きにくさに寄り添う支援
―本人とその周囲をよく見ることの大切さ(浅草事件を通して)―

大石剛一郎

1 はじめに

「障害」があるということは、その人の身体的・精神的ないし知的な特徴ゆえに、この社会において普通に平穏に生きていくことに困難さが生じており、何らかの「支援」が必要な状態だ、ということである。その困難さが放置されると、何らかの「事件」発生につながりやすい。事件発生はさらに大きな困難(生きにくさ)につながりやすい。何らかの支援があると、それは事件発生を防ぐ一定のブレーキになりうる。もっとも支援があっても、事件を100パーセント防げるわけではなく、生きにくさが支援を上回ってしまうこともある。事件を起こしてもなお寄り添う気持ちを切らない支援が必要である。それが保障されることは、この社会で生きにくさを抱えている人にとって最も重要な「人権」の一つである。

そのような障害ゆえの生きにくさに関する支援がなく、あるいは途絶え、生きにくさが増幅され、悲惨な結末が生じてしまった典型的事件として、浅草(レッサーパンダ)事件がある。この事件でも、支援が生まれる可能性のある契機は何回かあった。

2 浅草(レッサーパンダ)事件

(1)事件

2001年4月30日白昼、東京の浅草で、一人の女子大生が包丁で胸などを刺されて亡くなった。刺したのは、軽度の知的障害者とされる青年Aだった。Aは、その女子大生と友達になりたかった、と言う。話を聞いてもらうための道具が包丁であり、騒がれ抵抗されたので、制止するために刺した、と言う。

Aは数日前から浅草界隈を、春なのに毛皮風のコートを着て、レッサーパンダの顔のぬいぐるみ様の帽子をかぶって、飲まず食わずの状態で徘徊していた。Aは、事件発生から10日ほどで逮捕され、3年余の裁判の結果、無期懲役となった。

(2)養護学校時代

Aは、中学までは「イジメ」にあいながらも普通校に通っていたが、高校は、教師の勧めで、養護学校に通うことになった。

実はAの障害の主な特徴は、知的障害よりも、いわゆる社会性の障害、他人に対する共感やその場の状況についての認識・判断が十分にできない、ということにあった。しかしAは、養護学校高等部入学(1982年)以降、ほとんどの場面で単純に軽度の知的障害者と扱われ、「意志さえ強く持てば、とくに支援など無くても普通に地域で暮らせる人」という評価のもとで、生きることになった。

本当は、社会性の障害の部分に対する支援が必要不可欠な人だった。その支援があれば地域で平穏に暮らせるが、その支援がなければ、他人との適合的な関係の中で生活することは非常にむずかしかった。

このようなAの特徴は、養護学校時代は把握されなかった。当時は、知的障害を伴わない自閉症という概念がいまだポピュラーではなかった。それにしても、Aの個性をじっくりと見る、その上で必要な支援をよく考える、という作業が行われていれば、と結果論的には思う。

養護学校高等部の生活はAにとって、知的な面では困難ではなかったが、それだけにAは、知的障害者というレッテルに対し、そしてそれを前提とする養護学校の支援に対し、強い違和感・嫌悪感を覚えていた。具体的にAは、養護学校の行事への参加やそこで求められるリーダー的立場について、強いストレスを感じ、しばしばエスケープしたり、放浪したりした。しかし、Aに対する見方・評価は変わらなかった。

(3)母親

多くの他の場合同様、Aの最大の理解者は母親であった。Aは母親の前ではよく話し、感情を表に出していた、という。しかし母親は、Aが養護学校を卒業する前に、病気で他界した。そして母親が持っていたAに対する理解は、どこにも引き継がれなかった。

(4)就労

Aは、知的障害は軽いということで一般就労したが、Aの社会性の障害ゆえに人間関係がうまく行かず、数か月で転職、を繰り返した。ところが1991年~1994年ころに勤めた塗装会社では、Aの特徴を理解した支援・積極的な見守りが事実上行われ、Aは仕事について一定の苦労をしながらも、地域で普通の平穏な生活を送った。Aの家族(他界した母親を除く、父・妹・弟)も皆、その会社のお世話になっていた。

この塗装会社の社長夫妻は、福祉関係者ではなかったが、Aを雇用し、従業員として育て・生かそうとする中で、Aの個性に注視した。そして、知的障害は軽度だが、他人に対する共感やその場の状況についての認識・判断が十分にできないことを把握し、仕事や職場の人間関係等の場面で、それを補うような関わりや配慮を行った。その結果、Aは2年以上継続してそこに勤めた。そのままずっとそこで働く人生を歩むかに見えた。が、そうはならなかった。そして社長夫婦の「目」が、Aのその後の生活への支援に引き継がれることはなかった。

(5)事件と支援の喪失

Aは養護学校時代から、ストレスがたまると、数日間の小さな放浪の旅に出るのが癖のようになっていた。放浪癖は、塗装会社で勤めるようになった後も続いていた。その放浪中に、1994年、Aは函館で、奇妙な強盗未遂などの事件を起こし、結局、塗装会社を辞めることになった。会社を辞めさせたのは、「Aをきちんと監督するように」と、裁判所から要請され、責任を負わされた、Aの父親だった。

この裁判所の裁判官は、Aの障害の内容・特徴・程度の疑問を抱き、精神鑑定を行い、Aの障害に関する的確な判断に基づき、執行猶予判決に結びつけたのだが、支援者の選択を誤った。

Aの父親は、Aよりもむしろ重いくらいの知的障害者であり、Aを監督・支援できる人ではなかった。この父親に対する支援も必要だった。が、浅草事件の発覚を通じてAの父親の障害も発覚するまで、支援は皆無であった。

(6)ホームレスと刑務所の繰り返し

Aは、塗装会社を辞めた1994年以降は、放浪「癖」ではなく、放浪「生活」に入り、生活自体が成り立たなくなり、ほぼホームレス生活に近い状態で、生存自体が危うい状態にしばしば至った。そして揚げ句の果てに、奇妙な反社会的行為に及び、刑務所に入った。Aは刑務所と路上生活を行ったり来たりの人生となり、結局2001年、浅草で重大事件を起こしてしまい、無期懲役の判決を受け、長い刑務所生活に入った。

3 浅草事件は防げた?!

(1)福祉の支援に結びつかなかったこと

Aの生きにくさの根本は、Aの障害に対する周囲の無理解にあった。Aは、その障害の特徴に対する周囲の無理解のために、必要・適切な支援を確保されなかった。周囲の理解があれば、浅草事件は起きなかった。そしてそれは可能であった。母親の死、塗装会社の社長夫妻の支援、そして函館の裁判所の執行猶予判決、と少なくとも三度は、適切な支援に結び付く契機があった。しかし、ことごとく福祉の支援に結びつかなかった。

母親が亡くなった後、おそらく確実に不安定になったであろうAについて、Aの気持ちに積極的に寄り添ってみようとする支援があれば、Aは落ち着く方向に向かっただろう。塗装会社の社長夫妻の「目」が福祉の支援者に引き継がれる契機があれば、Aは果てのない放浪に出ることはなかっただろう。函館の裁判所判決の趣旨が福祉の支援者につなげられていたら、おそらくAは以後、刑事事件を起こしていなかっただろう。

また、Aの父親の知的障害に関する把握が早くなされていれば、浅草事件は起きなかった。Aの父親は、Aに対する有罪判決に直面して、判断能力に不十分さを抱えながら、自分のプライドと世間体といった見地から自分なりに考え、その結果として、Aに見守り支援をつけるのではなく、むしろAに対する支援を切ってしまう方向で動いてしまった。Aの父親の責任を問うのは酷だと思う。事件や事故に遭遇する障害者が発見された場合、その家族にも支援の必要性があるケースは非常に多い。

浅草事件は、福祉の支援があれば防げた事件であり、福祉の支援が届かなかった事件だった。「申請」がなかったのだから福祉の支援がつかなかったのは仕方がない、などということで済まされてはならない。多くの障害者は、支援がなければ、申請そのものができない。申請にも支援が必要である。さらにAについて言えば、「単純な知的障害」という評価に対し抵抗感・違和感を覚え、福祉の支援を拒んでいた。そのような状況で「申請」などありえない。

(2)障害を罰する?!

反社会的行為をしてはいけない(違法行為を罰する)ということには、その前提として、周囲の人と適合するための「社会性」の存在がなければならない。その前提が、障害の影響を大きく受けて崩れている場合、その前提、つまり「社会性」の獲得・形成・助長のための支援が必要不可欠なはずである。その支援を用意しないでおいて、本人の「社会性」欠如・不十分による反社会的行為・違法行為の責任を追及することは、障害があることそのものを罰していることに等しい。

支援の不存在は、浅草事件も示しているとおり、単に本人の不幸だけでなく、社会の大きな不幸にも確実につながる可能性がある。必要な支援が用意されなかったことの責任は、だれが問われるのか。家族か。その家族にも支援が必要なことは多い。やはり責任は本人に背負わせるだけ、ということになるのか。刑務所からはいずれ出てくる。また、支援はないから、事件・被害者・刑務所か。

4 おわりに

福祉の支援につながれば、生きにくさは確実に小さくなる。しかし、障害に対する固定的なステレオタイプの評価があると、支援は適切さを欠く危険がある。そこでは、さらに別の意味での生きにくさが生まれる危険がある。重度の知的障害者だから有効な意思表示をすることはまったくできないとか、自閉症だから他人の考えていることにはまったく思いが及ばないなどというような、障害ないしその程度の分類による一刀両断的な把握・処理は、往々にしてその人固有の特徴の無視・軽視につながる。

浅草事件のAは、そのような周囲の無理解に嫌気がさしたために、自ら福祉の支援の道を絶ってしまい、悲惨な道に迷いこんでしまった。

じっくりとよく見ていれば、物事の根は見えてくるものである。そしてその根の周辺も見えてくるものである。障害の特徴も同じだと思う。決めつけないで、本人とその周辺をじっくりとよく見ることが大切だと思う。

本人だけでなく、その周辺(家族を含む)もよく見ることで本人のことがより深く、立体的に分かる、ということは多い。そこでは周辺の人の利益や都合が見えてくるために、本人の立場、生活上おかれている状況などがより明確になる(そのように周辺に目をやっても、本人の立場に立つことを断固として踏まえていれば、道を踏み外すことはない)。弁護の仕事においても、このことを痛感することはよくある。

当たり前のことなのであるが、人が違えば、事件も違う。本人とその周囲をよく見ること。当たり前のことだが、これがなかなかできない。

(おおいしこういちろう 弁護士)