音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年10月号

わっぱの会―社会的事業所をめざして

斎藤縣三

1 通所作業所ではなく、「共働」

1975年、まだ作業所への自治体助成制度もほとんど無い時代、生まれて4年程のわっぱの会は名古屋市に対する市有地貸与を求める要求署名を集め、対市交渉を重ねていた。

当時はまだ一けた台の人数―障害のある人、ない人合わせて―で、共同生活および共同作業を行っており、狭い場所でひしめき合うようにして仕事をしており、何とかもう少し広い場所を確保したいとの一念が強かった。市内には名古屋市所有の立札が立つ空地がたくさんあり、「金はいらん、空いている土地を貸してくれれば、自分たちでプレハブでも建てる」という素朴な思いからであった。

市の障害福祉課長は「単なる任意団体に公共財産の提供はできない」と話し合いは平行線をたどっていた。意を決して、市長との会見を求めて市庁舎前の48時間ハンガーストライキを行ったことで、事態は大きく前進した。

初めて開かれた市長との交渉で、市長は「土地は貸与できないが、運営費の助成を行う」と表明した。これ以上粘っても進展は望めないと提案を受けることにしたが、ここからの市の姿勢と私たちとの違いが明瞭になった。

市の提案は、在宅の重度障害者の通所訓練を行う事業で、そのための職員人件費等を助成しようというものであった。私たちは、障害のある人、ない人、みんなで共に働き、共に暮らす場をつくっているのであり、障害者への通所の訓練をしているのではないとして、その趣旨を踏まえない助成など受け入れられないとした。困った市は、対象がわっぱの会だけである以上、認めざるを得ないとして「心身障害者共同生活・共同作業事業」という名称で、その事業育成のために使途自由の助成金制度が誕生することになった。

当時のわっぱの会は、仕事だけでなく、家事も分担し、それぞれができることを担う一つ財布の共同生活であり、通いで仕事だけに来る者にも、全員同額の分配金―といってもまだ小額であったが―を渡していた。こうした暮らし方や考えは、その後のわっぱの会の運営のあり方を決定づける基礎となった。

職員と訓練生ではない、みんなの共働という理念は定着していったものの、仕事からの収入は限られ、経済的な向上を図るにはまだ10年の歳月を要した。

2 「わっぱん」で共働事業所に

下請け仕事を続けている限り、仕事は不安定で収入も少ない。自分たちで製造し、自分たちで販売する仕事を創(つく)り出そうと決意し、仕事探しに取りかかった。資本も限られているなか、機械に頼らず、みんなの手作業が活(い)かせる仕事として、食品製造に取り組もうと考えた。大量生産、大量消費が進み、食品添加物の被害が言われるようになっており、食の安全性にこだわれば、十分市場の中での競争にも耐えられるのではないか、と2年程かけてあちこちの小さな製造現場を見て回った。

あまり資本もかけず、どんな仕事ならできそうかと考えた結果、販売のしやすさ、顧客づくりの可能性なども含めて、パン屋をやろうと決めた時に、ちょうど脱サラして無添加パンを開業していた所が見習いをさせてくれるという。半年間の修行を経て、1984年の初頭、無添加パン「わっぱん」の製造・販売が始まった(わっぱの会が作ったパンなので「わっぱん」という名になったが、この時、わっぱの会は、パン屋をやるために付けられた名であったことに気付かされた)。

当時は、障害者が関わるパン屋さんはほとんどなく、それも職員や親が購入するぐらいの生産量でしかなかった。市場で流通するパンづくり、しかも国産小麦使用、無添加のパンづくりは初めての試みであった。まだ知的障害の人が食品を扱うのは不衛生という偏見もあった時代、果たしてうまくいくのかという不安も大きかった。

フタを開けるとわっぱんは大好評で、安全でおいしいとの好評を得て、最初2種類のパンで月の売り上げ40万円、携わる人2人で始まった仕事は、その後数年間、倍々の勢いで発展していった。

この間、またたく間に、同じ仕事場のすべての人がパンの仕事に従事することとなったが、そこでは大きな発見があった。

当初はパンづくりに参加できる人は限られると思っていたが、全員がパン屋に変わることでより障害の重い知的障害の人も喜々として、みんなの一員として仕事に参加できる状況が生まれていった。パンの香りに包まれて、白い帽子に白い作業着を着て、みんなでワイワイやっていればみんなパン屋さんなのだ。今でもパン生地に触れない人がたくさんいるが、いろんな仕事さえあればみんなパン屋さんになれる。

こうして80年代終わりにはもう一つの仕事である印刷業と合わせて、年間8千万円の売り上げ、従事者数50人を超える事業体に育っていった。ようやく作業所から脱皮できる経済力がついてきて、自分たちが目指してきた「共働事業所」としての実体が備わってきたと言える。

分配金(給料や工賃ではなく、みんなで稼いで、みんなで分け合うものとして、一貫してそう呼んでいる)も上昇し、全員同額の基本分配金に生活の実態に応じた生活加算金が上乗せされ、だれであれ、親からの扶養なく生活できる仕組みがつくられている。障害のある、なし、学歴や資格、年齢や性別、能力や仕事の内容に関係なく、この分配金はなされ、現在、約180人のわっぱの会会員に総額4億円の分配がなされている。

3 仕事の拡がりと第三の道「社会的事業所」へ

90年代以降の変化は、次の2点があげられる。1つは仕事の拡がりである。パンづくりに始まって菓子づくり、店舗経営、農業(米、麦、野菜づくりから、農産加工、製粉まで)、リサイクル事業(ペットボトルや発泡スチロールの中間処理)、うどん製造へと拡がった。

2つ目は就労援助事業の開始である。共働事業所は拡大しているというものの、働きたい障害者をどんどん吸収する力はない。そこで、街の会社や工場やお店にもっと障害者を受け入れてもらおうと、障害者就労援助センターの看板を掲げることとなった。

共働事業所は7か所となったが、現在、全体的な見直しが行われている。うまくいっていない事業は止め、新しい事業への転換を図るべく検討が進められている。

就労援助事業は、現在2つの機関を有し、1つは職業訓練校、1つは就業・生活支援センターである。だれでもというわけにはいかないが、今年は100人以上の人たちの一般企業への就職を実現することになる。今のところ、就職したい人は限りがなく、継続的に支援の必要な人は増えるばかりである。

そして今、わっぱの会は新しい挑戦を始めようとしている。21世紀初頭より、後述の田中論文で詳しく語られているイタリアの社会的協同組合との出会いは、私たちに新しい方向性を与えてくれた。紙幅もないので簡単にしか触れられないが、これまで障害のある人、ない人の対等な関係にこだわってきたものの、結局は社会福祉事業の枠組みの中で大勢の障害者を抱えこんできた。

それに対し、社会的協同組合は、みなが対等な組合員でありつつ障害者以外の社会的不利を有する人々も含めて、ハンディをもつ人の割合を全体の3、4割にとどめ、経済的活力を損わないような仕組みとなっている。

私たちは、こうしたヨーロッパに拡がる社会的企業―それは韓国においても「社会的企業育成法」として結実しているが―を一つのモデルとして、「社会的事業所促進法」の制定を呼びかけている。これまでの福祉的就労や一般就労とは異なる第三の道として育んでいかねばならない。

(さいとうけんぞう 共同連 わっぱの会代表)