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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年11月号

時代を読む13

アジア太平洋障害者の10年を成立させた人たち

1993年に開始された「アジア太平洋障害者の10年」の伏線は、1983年からの「国連・障害者の10年」だった。国連の10年で十分な成果を上げた欧米諸国の反対によって第2次の国連の10年は宣言されなかったという誤解が日本にはある。黒船神話に囚(とら)われ、欧米志向の国では当然かもしれない。

しかし、1990年5月にフィンランドで開催された、10年の評価を行う国連専門家会議での議論は全く異なっていた。10年終結により予算とスタッフ減を恐れる国連事務局は第2次を望んでいた。ところが肝心の国際的障害者運動側が10年という枠組みは看板倒れで無益であるとし、反対した。筆者は、同会議に専門家として出席した、当時DPI(障害者インターナショナル)アジア太平洋ブロック議長だった八代英太(自由民主党参議院議員)の秘書として同行し、そうした議論を耳にして驚いた。

こうした意外な世界の動向を受けて、アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)や国際協力機構(JICA)を通じた、アジア太平洋での取組をいかに継続、強化するかという課題に対する答えが地域での10年だった。その答えを出したのは、ESCAPで当時、障害を担当していたサン・ユンワ(マレーシア)だった。アジア太平洋障害者の10年に母がいるとすれば、サンである。それをサポートしたのが、丸山一郎だった。

そのサン・ユンワと、八代の名代としての私が一緒に1992年1月に北京を訪問し、中国障害者連合会主席の鄧樸方に面会して、同年4月のESCAP総会のホストを務める中国政府として、地域の10年の宣言を提案するよう検討を依頼した。

当時、自由民主党の政務調査会の副会長を務めるなど与党内で力のあった八代がなぜ、日本政府主導の提案ではなく、中国政府の提案を探ったか。しかも当時、八代の派閥の領袖である渡辺美智雄は外相だった。その体制であってすら、外務省を動かし日本が単独で10年を提案するところまでこぎつけるのは無理という判断があったためである。1989年の第2次天安門事件があったとはいえ、日中の蜜月関係も背景にはあった。

北京から青信号が届いたのは2月になってからだった。その後、私は大車輪で、アジア太平洋各国の首脳やDPIネットワーク宛に八代名で書簡を送り、10年への支持を訴える日々となった。国内では太宰博邦や板山賢治が賛同の声を上げた。ESCAPのサン、日本の八代、中国の鄧という三者の連携が基軸となり、アジア太平洋障害者の10年が北京でのESCAP総会で成立したのは4月である。

このアジア太平洋の10年が成果を上げ、アラブ、アフリカ、米州など他地域も追随してきたその後は誰もが知る歴史である。

(文中敬称略)

(長瀬修 東京大学大学院経済学研究科特任准教授)