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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年2月号

障害者運動史にみる生命

廣野俊輔

1 はじめに

本稿の目的は障害者運動、とりわけ「日本脳性麻者協会青い芝の会」(以下、会という)における生命をめぐる議論を拾い上げ、「障害と生命倫理」という本号のテーマをめぐる議論のきっかけを提供することにある。

筆者の役割は、特に1970年以降の障害児殺害事件や優生保護法改正反対をめぐる議論を取り上げることだと考えられるが、まず、1960年代の議論から検討したい。というのも、1970年代の議論はある程度手記などがあるが、それ以前の議論は紹介されることが少ないからである。

2 生命をめぐる葛藤―1960年代の議論から―

会の発足は1957年11月3日である。当初は親睦団体だったと指摘されることが多い。そのためか言及されることも少ない。しかし、障害と生命倫理というテーマからはいくつかの注目すべき議論が存在した。2つ例を挙げたい。

第一に会は、1961年に自死によって会員を失っている。後の会報にはこの死をめぐる会員のたよりが掲載されている。それらのたよりには、「脳性マヒ者の容姿やふるまいが健常者と異なるという理由で結婚や恋愛をすることを、社会が認めないのであれば同じような自殺が続いてしまう」といった意見1)や「自分もやりかねない。全ての動作が遅い私たちは(親も含めて)邪魔になるだけの様だ」といった意見2)、また、「会員が苦悩を吐露できる相談の活動が必要」という意見3)が出されている。すでに社会が会員を死に追い込んでいるという認識が現れていることを強調しておきたい。

生死をめぐる葛藤を示す第二の例は、多くの会員が会と重複して入会していた「しののめ会」の『しののめ』という雑誌に掲載されている。同誌では、安楽死についての特集が組まれている。この特集については、花田春兆氏の論文を参照されたい。本稿では、この特集をめぐる横田弘の「過程」という記事だけは特に取り上げておきたい。というのも、横田は1970年代において、優生思想との対決の先頭に立つ人物でもあるからだ。横田のこの記事には、「重度者に可能性は望めそうもありません。現実の生活でも、精神の方面にでも。にも拘わらず私は生きています。重度者の存在を否定するこころと死を恐れる本能とに苦しみながら今日も生き続けています。」と述べられている4)

「可能性が望めそうもないこと」と「死を恐れる本能」との葛藤。この記事は、当時の障害者の生命をめぐる葛藤をよく示している。実際に、横田はこの記事の中で安楽死を肯定したり、否定したりしている。本稿で後ほど取り上げる横田の1970年代の文章と、この文章をつき合わせてみれば、1960年代と1970年代の連続性と相違が明らかになるだろう。

こういった葛藤に関連してもう一つ指摘しておきたい点がある。それは、こうした生死をめぐる葛藤が生活の不安と結びついているという点である。

先に言及した『しののめ』では、1959年に入所施設をめぐる座談会が行われている。この座談会では「在宅にいても居づらく入所施設にも問題があるなら、安楽死を認めて欲しい」5)という主旨の発言がある。会の会報にもホームヘルパー制度が充実すれば、一人暮らしが可能になり重度障害者から死の影が消えるというような意見も掲載されている6)。入所施設やホームヘルパーの制度と生死が結びつけられるのは奇妙に思われるかもしれないが、さまざまな記事が生活の不安と生死の葛藤が結びついていることを示している。このことは、障害者の生死をめぐる葛藤を単に精神的な問題としてのみとらえられてはならないということを意味している。

3 生命の肯定―1970年代の議論―

1970年代に行われた議論は、以上に見てきたような葛藤を表出したものだといえる。もちろん、この時期の議論が注目されるには理由がある。やや先回りして言えば、1970年代の議論は1960年代に表出された葛藤を出発にしつつ、障害者が優生思想に対抗して生きていく道筋を与えたと筆者は考える。筆者の考える1970年代以降の生命をめぐる議論の新しさについて、例を挙げながら述べたい。

まず、1970年代以降の議論は、障害者を死に追い込むのがどのような要因なのかを明確に指摘している。それは、生産第一主義という社会の特徴である。これが障害者を序列化し、排除すると主張する。しかもこの序列化と排除は、排除を繰り返しても、常に底辺は残るがゆえに自壊的な結果をもたらす、という点も指摘している。

このようなメカニズムを説明するために横塚晃一は、鶏の飼育の観察を例に挙げる7)。彼によると、群れの中にかならずいじめられる鶏がおり、そのいじめられる鶏を群れから移動させてもまた新たに1羽いじめられる鶏が生み出されるという。そして、結局それは残り2羽になるまで続くとされる。

同様の論理で横塚は優生思想に立ち向かう。「生産力のない」とされる障害者を抹殺しても、次から次へと新たに抹殺すべき底辺を生み出し、結局、その社会は持続できないというのである。

1970年代の議論における第二の特徴は、障害者の生を肯定するという姿勢がはっきりと打ち出されているという点である。その特徴が最も顕著に表れているのは、横田弘の議論である。関連する研究では、横田や横塚は健常者と障害者の身体的な差異や置かれている立場の相違を強調する志向があるとされている。それは間違いではないのだが、その背景に生命を徹底的に平等だと考える思想があることも見逃されてはならない。

たとえば、横田は次のように述べている。

「自己の存在、それは何ものにもかえ難い自己そのものなのである。肉体の差異、精神の在り方などは全く関わりのない自己の『いのち』そのものなのである。肉体の差異によって、あるいは精神の在り方によって自己の存在価値を規定されて、その価値判断の下に、差別、抑圧、抹殺されている現状に対して、私たちは毅然とした態度で闘いを進めていかなければならない。」8)

絶対的な生命の平等の主張がありのままの差異を承認すべきという論理に結びつく。横田は、なぜ歩けないままでいてはいけないのかと問いかける。もちろん横田も、何かができることの便利さを否定しない。しかし、便利さの問題と善悪を混同し、障害のあることを悪としてしまう社会を追及するのである。

4 おわりに

これまで、障害者運動史における生命をめぐる議論を極めて簡潔に紹介してきた。読者の中には「では、どういう社会になればいいのか」と思われる方もあるだろう。そういったあり得るべき疑問に対する答えになるか定かではないが、最後に、横田弘と横塚晃一の発言を紹介して本稿を終えたい。

「青い芝の会は当たり前の事を言ってきただけです。なぜ障害者は当たり前に生きていけないのかという、それだけですよ。」9)。現在、障害者の生は「当たり前」になっているだろうか。

また横塚は、簡単に「じゃあどうすればよいのか」と問うことに疑問を投げかけている。しばしば、「じゃあどうすればよいのか」という投げかけは、問題をはぐらかすためにされると述べている。そして、自分たちの問題提議をしっかり受けとめ、現実を直視してはじめて「どうすればよいのか」を問うべきだとしている。彼はさらに、会の運動が原点に人を立ち返らせる運動であるとしている10)

障害者福祉政策はめまぐるしい変化をみせている中ではあるが、原点に立ち返って考えることも必要ではないだろうか。

(ひろのしゅんすけ 同志社大学大学院)


【文献】

1)金沢恂「白土さんの死に思う」『青い芝』4周年記念号、PP.44-45、ただし筆者の要約。1961年

2)丸山かよ「白土さんの死をしって」『青い芝』4周年記念号、P.46、ただし筆者の要約。1961年

3)柴田弘久「手紙の紹介のため題無し」『青い芝』4周年記念号、P.47、1961年

4)横田弘「過程」『しののめ』48号、PP.48-60、1962年

5)花田政国(文責)「座談会―収容施設の問題」『しののめ』38号、PP.36-42、1959年

6)伴井よし子「在宅重度障害者の一人として」『青い芝』60号、P.4、1967年

7)横塚晃一「鶏にみる『弱者』考」『青い芝』95号、PP.43-46、1975年

8)横田弘『障害者殺しの思想』JCA出版、P.119、1979年

9)横田弘「三澤了との対談」『DPI我ら自身の声』22号2巻、P.15、2006年

10)横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、P.31、2010年