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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年2月号

特集を読んで

石渡和実

1 はじめに

筆者の障害者福祉の原点は、「否定される命」である。

今から四半世紀ほど前、横浜市で働くようになり、廣野論文で紹介されている横田弘氏と出会った。横田氏は、甘っちょろい「ひよっこ」だった筆者に、障害をもって生きるとは何かを丁寧に語る場を作ってくださった。それから何度、この「否定される命」という言葉を横田氏から聞いたであろうか。

2 「障害と生命倫理」とは

廣野論文で指摘される60年代の横田氏の「葛藤」。すなわち、「可能性が望めそうもないこと」という自己否定と、「死を恐れる本能」とある生への希求。「生をめぐる相克」とでも言えようか。横田氏にお会いしたのは80年代半ばであったが、そうした葛藤が、未熟な筆者にさえひしひしと伝わってきた。相反する思いを抱き続けていることが、氏を突き動かし、喜寿を迎えた今も、妥協のない運動を続ける原動力となっていると思える。

本特集の企画者でもある花田氏が、論文の冒頭で70年代の青い芝闘争を、「死ぬのはともかく、殺されるのはゴメンだ」の一言に尽きる、と表現している。氏が指摘する通り、ADAよりも10年以上も前に、障害者自身が自分たちの生きる権利を宣言していたのである。まさに、「日本から世界へ向けての貴重な発信」である。一般に「人権赤字国」とさえ言われるわが国で、なぜ、このような権利主張をなしえたのであろうか。

廣野氏は、60年代の葛藤を経て優生思想に対抗する生き方を、障害者が70年代の闘争の中で確立したと指摘する。「生産第一主義」の社会で、そこに寄与できない障害者は序列化され排除される。横塚晃一の「鶏」の比喩は強烈である。こうした厳しさの中で、なお障害者の生を肯定する強い姿勢が青い芝闘争には貫かれている。非障害者との違いを強調しながらも、生命を徹底的に平等と考える思想が根底にあるからだという。

横田氏の、「自己の存在、それは何ものにもかえ難い自己そのものなのである」という言葉が象徴的である。氏が、最も頼るべき存在である親に、「心中」という殺意を抱かれた瞬間の恐怖を語ってくれたことがある。そのような修羅場をかいくぐってきたからこそ、「命の重さ」を痛感し、どの命も尊いことを肌で感じ取っているのではないだろうか。

3 「命の多様性」を考える

障害分野で活動していて、今、改めて誇りに思うことがある。障害者の権利条約で「多様性の尊重」が強調され、障がい者制度改革推進会議などで、この理念を現実のものにすべく、論議が重ねられているのを実感するからである。障害のある人たちが、貧困、虐待、疾患など、さまざまな原因で厳しい状況に置かれた人にも思いをはせ、共に歩もうとしていることを随所で感じさせられる。「生命の平等」「どの命も尊い」について、わが国では今、障害分野からの強力な発信が進められている。

こうした観点から、この特集でハンセン病、外国人女性について取り上げていることは意義深い。

田中論文では国際的な視野から、命や優生学について考えさせられる。アメリカでは移民、人種的問題としてハンセン病への対応が行われたが、同一人種である日本人は「他者」として隔離することになった。ハンセン病の大きな問題である断種手術や中絶も、アメリカでは個人の判断、自己決定で決められたという。

こうした指摘を堀田論文の「生命倫理学とは何か」と併せて読むと、日本特有の課題が浮き彫りになってくる。堀田氏は、生命倫理学の基本的枠組みは、医学的・生理学的利益とは別の利益を選択する、そうした個々人の自己決定を尊重することだと強調している。そこには決定する人の価値観とその人を取り巻く社会状況が大きく影響するという。日本の場合、障害をもって生きることを否定的に評価する価値観があり、当人と家族に負担が集中する社会状況がある。こうした社会規範、単一な価値観の下では、自己決定の尊重などありえず、生命倫理学が関与する余地はない、ということにもなるのではないだろうか。

このような特有の社会にあって、山田論文にある、外国人女性支援の立場からの指摘には大きな示唆を受ける。「『何らかの役割を果たしていなければ価値がない』社会にあって、実は『何もしない(ノンフェール)』が最も創造的ともいえる」。まさに「納得!」である。青い芝に代表される障害当事者の運動は、あまりにも強固な否定を受け、社会に入り込む隙間すらなかった故に、独自の、そして本来あるべき方向性が打ち出せたのではないだろうか。「すべての命が尊い」「誰もが平等」という価値観・人間観である。

4 障害分野から「命の重さ」への提言

改めて障害分野からの声に注目すると、「命の重さ」を高らかにうたった表現に心を揺さぶられる。日々の仕事を通して「『命の重さ』を肌で感じ」、今、ALSの患者として生きながら、「人間、どんなことに直面しても夢は捨ててはだめです。無限の絆を大切に互いに頑張りましょう」と訴える長尾氏。重症心身障害者の娘さんに対する、「死ねばいがったのにねえ」という言葉に、悪意ではないだけに大きなショックを受け、「許せない」と立ち上がる下郡山氏。47歳のお嬢さんが、今、「言葉では言い表せませんが、人を動かす力、生きる力が付いたのです」。そして、「彼女の存在の豊かさに気付いてくれた人々に感謝です。人間は多様なのです」と言い切る、下郡山氏のたくましさ!

脳死・臓器移植との関連で、愛おしい娘、遥ちゃんとの日々を綴った永瀬論文には、思わず随所で涙させられもした。人工呼吸器をつけて3年7か月を生きる遥ちゃん。「日々成長する姿は、我々や祖父母にとって生きがいとなっている」「『私は生きてるよ!』とキラキラとした光を放ち続けている」。遥ちゃんの存在は、永瀬家の皆さんだけでなく、取り巻く医師・看護師、出会った人々に大きな力を与えている。

このような「極限を生きる」立場からの警鐘であるからこそ、脳死・臓器移植をめぐる問題提起には身震いさえ覚える。「命のリレー」などという美しい言葉で語られる臓器移植。「善行」と信じて疑わない決断が、「あなたの決断はあなたの問題にとどまらない」との鋭い指摘には、まさに恐怖すら感ずる。永瀬氏ならではの発信である。

麓論文で紹介されている、障害児の親たちの声も圧巻である。麓氏が指摘するように、「生命倫理」を考える時、「障害児を殺すこともなく、今その人たちを産み育てている多くの親たちの考察がない」ままでは、真に「命を問う」ことには決してなるまい。

麓氏の言う「(『障害児殺し』だけでなく、こうした親たちの)一つ一つの体験もまた大きな事件」、廣野論文にある「なぜ障害者は当たり前に生きていけないのか」という横田氏の声、山田論文の「『ふつうであること』に抑圧を感じる者たちが生きる場も危うくなる」との指摘、これらの言葉の重みを再認識させられる。どのような立場にあっても、当たり前に、自分らしく生きることが実現できる社会でなければならない。

5 終わりに

今回の特集テーマと向き合っていた時、筆者個人にも、「命を直視せざるをえない事態」が生じた。「なぜ?」「どうして?」「替われるものなら替わりたい」「生きていてくれさえすればいい」こんな時にだれもが味わう、さまざまな思いが交錯した。だからこそ、特集論文の多くの言葉が、わが胸にずしんと響いた。そして、大きな力をいただいた。

人間の力には限界がある。神なのか、運命なのか、抗(あらが)えない力が人生には働く。しかし、一方で、人間のもつ無限の可能性も実感させられる。厳しい状況に立ち向かおうとする勇気、当たり前に生きることを願うひたむきな思い…。こうした力は、共に歩んでくれる人、家族や仲間、支えてくれる多くの人々の存在があるからこそ発揮できるのだ、とつくづく思わされている。

花田氏が論文の終わりで、白石凡氏の『生への畏敬』という言葉を紹介している。「生」を得て、与えられた人生を謙虚に受け止め、かつその人生を精一杯生き抜くこと…。筆者なりにそんな理解をした。

「どの命も尊く、かけがえがない」。50年も前、障害分野から発信された、生きることの根源、社会の根底を貫くべき言葉である。今、「生命倫理学」という枠組みから、このような社会の実現を目指す、新たな運動の展開が求められている。命を守ることを目指す、あらゆる立場の人々と連携し、揺るがぬ信念をもって運動を続けていくことが、今こそ求められているのである。

(いしわたかずみ 東洋英和女学院大学教授、本誌編集委員)