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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年3月号

1000字提言

こたえよ ふるさと

船橋秀彦

「ふるさとに かえりたい」
もういいかい まあだだよ
うつらないから もういいかい
まあだだよ
なおったから もういいかい
まあだだよ
もうじき死ぬから もういいかい
もういいかい
もういいかい
骨になっても まあだだよ*
ハンセン病療養所には
「もういいよ」の応えを待つ
戸籍のない二万三千七百の遺骨がある
「無名」と書かれた多くの骨壷がある
平均年齢七十四歳 療養所で暮らす
四千四百人の回復者がいる
一九〇七年の強制隔離法から九十余年
ながいながい ときをへて
「ごめんなさい」とあやまった
二〇〇一年五月 総理の「控訴断念」
ハンセン病違憲国家賠償訴訟の勝利
だが まだ ふるさとから
「もういいよ」の応えはない
「おかえりなさい」は届かない
ふるさとは まだとおい

*中山秋夫さんの川柳

これは、2002年に、ハンセン病回復者の平沢保治さんと共著で自費出版した児童文学『ぼくのおじさんは、ハンセン病』に掲載した自作詩だ。
平沢さんは、1927年に茨城県古河市に生まれ、13歳で発病し14歳で多磨全生園に入った。実名を名のり、出生地を明かす患者はごく少ない。児童人権教育に身を捧げる平沢さんは、「子どもに嘘はつけない」と、実名を通した。その平沢さんも「肉親に迷惑をかけるから」と、故郷での講演は固辞していた。激しい差別は、最も親しき人たちを引き離していた。

入所規定はあっても退所規定がない「らい予防法」(96年廃止)の下、全生園に暮らし、すでに70年を経て83歳となった。その平沢さんが、「自分が変わらなければ肉親の変わる余地はない」と、故郷での講演を決意したのは、病に臥した80歳の秋だった。それから母の墓参(07年)、母校の小学校での講演(08年)等、故郷は確実に近づいた。だが、「弟と一杯のお茶を交わし、一緒に母のお墓参りをしたい」との願いは、いまだかなわない。肉親に打ち込まれたくさびが、抜けないのだ。

私は、肉親との再会を夢見て、平沢さん宅で酒を酌み交わした―80歳の決断と勇気に乾杯。

(ふなばしひでひこ 茨城県立水戸飯富養護学校教諭)