「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年3月号
文学にみる障害者像
映画『ゆずり葉』
坂部明浩
今や不朽の名作となりつつある映画『ゆずり葉』が、本コーナーへの登場となった。すでに全国500会場以上で上映され、本誌2009年7月号をはじめ、マスコミの話題も集め、現在もなお、各地で上映中。全日本ろうあ連盟創立60周年記念映画だ。
広く受け容れられた理由の一つとして、現代の日本の重大なテーマにもなっている無縁社会への不安といったことにも『ゆずり葉』が応(こた)えているからではないだろうか。
そもそも『ゆずり葉』というタイトルの元になったユズリハという樹木は、親の葉が子どもの葉の成長を見届けてから散っていくという性質があり、それがあたかも世代の継承の象徴として、時に縁起物としてお正月の注連飾りにまで登場するが、そのイメージがそのままこの映画にも反映されている。
映画は、下町谷中(やなか)を俯瞰しながら、だんだん坂上のユズリハと共に始まる。
1999年夏、ろう者の主人公敬一は、50代後半のベテラン大工として、自転車で谷中の町並みを通り、根津(ねづ)の坂を降り、工務店に通っている。先代の社長からは腕を買われているものの、2代目社長はろう者への理解がない。そのうえ次第に身体は病にむしばまれていくなか、彼の記憶は30年前の出来事へ。
昭和40年代、運転免許取得をめぐるろうあ運動の記録映画(フィルム)へ傾ける情熱。そして、恋人早苗との出会いと悲しい別れ。記録映画(フィルム)の挫折、中断。
そうした彼自身の、そしてろう者としての辛い経験に、目を伏せてきた敬一。
1999年横浜。30年後の今もろう者は「差別法規」に振り回され、そのための会合を開いていた。また、時を同じくして、薬剤師になる夢を抱いた女性、尚美が薬剤師の国家試験に見事合格しながらも、免許申請を却下されるという出来事が起こる。法律の欠格条項の壁だ。
こうした差別法改正の機運の下、全日本ろうあ連盟の事務局長で、敬一の古い仲間でもあった大川は、敬一の正面に立って言う。「お前自身に起こったことを再現しなければ、この(30年前に中断した)フィルムは終わらない。それこそが俺たちの世代のろうあ問題だ。それを作るのはお前以外にない」。敬一は伏せてきた目を開く。
ここから、映画『ゆずり葉』は一気に、敬一のフィルムの完成を目指すことをもって、現代へと続くろう者の苦難の歴史の解決の糸口が開かれていく。圧巻だ。
ろうあ運動を知らない若い世代のろう者、吾朗。「健聴者」に近づくことばかりを考えてきた役者志望の吾朗が、恋人のろう学校教師さやかの勧めで、敬一たちのフィルム「生きるために」の完成に向けたオーディションを受け、主役に抜擢される。さやかの妹が薬剤師を目指して格闘中の尚美だったことも相まって、次第に、吾朗はろう者の生き方へと引き寄せられていく。
敬一の気迫、吾朗の自覚。それらは、他を寄せ付けぬほどの緊迫感となって、フィルム撮影現場を包み込む。吾朗と制作スタッフの言い合いの時、敬一が立ち上がる。
「こういうケンカは歓迎だ。俺たちも昔何度もぶつかってきた。言い合える仲間がいるということは素晴らしい。だが、今はカメラが回っていない。その思いを本番にぶつけてくれ」
病がさらに敬一を追い込むごとに、フィルムは研ぎ澄まされていく。こうして映画はそのすべてが瓦解するように激しく、そしてやがてゆっくりと、(約束された?)一点に収束していく…。
『ゆずり葉』の監督と脚本を担当された早瀨憲太郎さんは、自身ろう者で、ろう児対象の学習塾を経営されている。子どもたちから「ろうの大人が出てくるドラマが見たい!」「なんでテレビにろうは出てこないの?」と言われ、同じ思いをもっていた早瀨さんはドラマづくりへ向かわれたとのこと。そして、それがちょうど全日本ろうあ連盟の創立60周年と重なるなかで、本格的な劇場映画へと企画が膨らむ。ろう児の思いから出発したことが、次第に「聞こえる聞こえないという枠を超えて、純粋にエンターテイメントとしての『映画を作りたい!』という気持ちが強くなってきた」という(1)。
ここに及んでこの映画の誕生を支えてくれたのが、早瀨監督の奥様の早瀨久美さんの存在であることは間違いのないところであろう。映画の中の尚美のモデルが早瀨久美さんだからだ。実際にろう者として薬剤師の国家試験に合格するも、薬剤師法の欠格条項により免許申請を却下される。「自分の持つ実力を発揮するスタートラインに立つために、本人の資質と努力によってかなえられる社会であってほしい」と訴え(2)、その後の欠格条項撤廃運動の末、薬剤師免許を取得した当人をもっとも身近に見てきた早瀨憲太郎さん。
さらに凄(すご)いところは、一連の報道で早瀨(旧姓後藤)久美さんに取材にきたマスコミをつかまえては、映画の作り方のレッスンを受けたということ(1)。ろう者がマスコミに載るだけでなく、その機会をいい意味でしたたかに利用してしまっているエピソードとして私は面白い!と思った。
『ゆずり葉』自身、劇の中に劇があるという構成になっているが、早瀨監督自身が自身に物語を引き込むほどの“思い”の持ち主のようだ。
それはたとえば、早瀨久美さんの著書『こころの耳―伝えたい。だからあきらめない。』にあるように、今回のロケ地の1つ「横浜」への早瀨監督の思いの強さ、あるいは、共通の友人との辛い別れなど、すべての経験が1つの縁のように『ゆずり葉』の物語へと成長していったことが見て取れる。自身を見つめ、現実が物語を鍛え、物語が現実を鼓舞する。そうした離れ業を、プロの映画師たちに支えられながら成し得た偉業―それが映画『ゆずり葉』なのだろう。
さあ、こうなると、本稿のテーマである「文学にみる障害者像」というのも、当事者ならいざ知らず、障害者像をうんぬんすることが難しくなる。自身にはね返ってきてしまうからだ。思いを共有することで、すでに客観的評価だけにとどまっていられなくなる。
あるいは、敬一たちが最初にフィルムを創り始めた時代の、昭和40年代の実際の運転免許裁判の経過(3)、そしてその時にそうしたろう者の運動を聴者はどのように見ていたか、その時の障害者観といったこと。あるいは、ろう者の映画として有名になった『名もなく貧しく美しく』などの黎明期の時代の人々の反響(手まねか口話かの論争など(4))と『ゆずり葉』の反響の比較など、すべてを考察せねばならないが、私にはその力量もまた紙幅も、ない。
そんななかで唯一私が『ゆずり葉』の物語と現実から引き出したもの、それは、尚美と姉・さやかの関係である。早瀨久美さんは実際には一人っ子。その苦悩をさやかという物語上の姉を創(つく)りだすことで、一人の苦悩を「対話」に変えた。そしてそのことでもう一人の自分(さやか)に、吾朗との恋愛を芽生えさせた。男女の愛(早苗の瞳は過去~未来を貫いていく)、親子の愛、そして、仲間を想う愛。どれも普遍のテーマとして成長していく。これこそ、架空の障害者像でありながら、そのことで文学的、アート的な新しい境地を開拓した早瀨監督の底力ではなかっただろうか。
川沿いで敬一と吾朗が対面するシーン。そのシーンからそのまま川沿いをどこまでも「まっすぐに」自転車を漕いで吾朗がさやかのもとへ辿(たど)りつきプロポーズするシーン。この構図などはきっと映画史にも残るのではないだろうか。今も頭から離れない。
最後に、ロケ地のひとつ、谷中の話をしたい。私もそこの住人として、2008年には台東区聴覚障害者協会の皆さんと映画を記念して谷中に残る路地の数々を散歩した。細い路地では一列縦隊で手話が伝言ゲームのようになった。猫と目が合った。
早瀨監督も生まれ故郷の奈良同様、古いものと新しいものが同居していて気にいったと言われた谷中。主人公の務める工務店のロケでは、ここ谷中の阿部建築さんでカンナが黒くなるほど主役の庄﨑隆志さんは特訓されたそうである(5)が、昔から、谷中や隣町の根津は職人の町としても知られており、その意味では、敬一が今にも町を歩いているかのような錯覚に陥る。映画『ゆずり葉』の思いを未来へ伝えていきたい。
(さかべあきひろ 谷中住人)
【参考文献】
(1)『ノーマライゼーション』2009年7月号、58―59頁
(2)『ノーマライゼーション』2000年12月号、32頁
(3)松本晶行著『ろうあ者・手話・手話通訳』「運転免許裁判回想」
(4)『日本聴力障害新聞』1960年10月号
(5)『MIMI』2009年124号、15頁