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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年4月号

相談支援活動を通して

松友了

はじめに

まさに、微妙な時の原稿執筆である。一つには、未曾有の被害をもたらした「東北関東大震災」が発生して1週間目であるということである。被災者の苦悩に心を奪われ、支援活動に入れていないわが身をもどかしく思う。二つ目は、この特集のテーマに関することであるが、東京都地域生活定着支援センターの受託事業者募集に応募し、その結果待ちの「まな板の上の鯉」状況であるということである。結論が出ない状況の中で脱稿する。

1 「触法障害者」問題との出会い

筆者は長らく、障害問題に当事者(弟・親)として関わってきた。学生時代に誕生した長男(現在40歳)は、生後4か月目に難治のてんかん(ウエスト症候群)を発症し、重い知的障害を併せもった。そのため、さまざまな制限と排除を経験した。筆者はそれが認容できず、1年間の専門職としての施設勤務を除くと、すべて障害者運動(日本てんかん協会、全日本手をつなぐ育成会)の専従役員(常務理事)の立場から発言し、行動してきた。

親としての立場は重く微妙であるが、じつは弟の立場でもある。3歳上の兄は知的障害があり、彼の存在が私の人格と思想形成に大きな影響を与えた。大学で社会学を専攻し、社会問題や社会変動論に関心をもち、ささやかに活動に加わったのは、障害者差別への憤りであった。当時の鮮明な記憶は、売春での知的障害女性の被害の問題と、知的障害のある赤堀政夫氏が幼女殺害事件の犯人とされた冤罪事件である、島田事件のことである。

てんかん協会の時も、てんかんに関する無知や偏見から生じた、ルビー事件(ケネディ大統領の暗殺犯であるオズワルドを人前で射殺したルビーを「てんかん発作のせい」と弁護した事件)や都議会議員の「万引き」決めつけ事件(買い物中に発作が起こり意識混濁からの行動を誤解した事件)等に遭遇し、疾病や障害と犯罪・非行の複雑な関係に直面した。全日本育成会の時は、雑誌『更生保護(1992.10)』への抗議行動に関与することになる。

保護司会の機関誌に、ある著名な犯罪精神医学者の論文が掲載された。それは、「知的障害と犯罪を直線的に結び付け偏見を助長するものである」ということで、あの穏健な全日本育成会が強く抗議したのである。

当時、機関誌『手をつなぐ』の編集長であった筆者は、和解後にこの雑誌に知的障害に関する啓発の文章を書くことになる。しかし、この出来事がその後、知的障害と犯罪の問題についての議論を萎縮させた。全日本育成会は、この問題を積極的に取り組んできた歴史があったが、その頃は避ける傾向があった。

強烈な個人史は、浅草事件(2001.4)と国分寺事件(1997.5)である。前者は、札幌市の高等養護学校の卒業生が、女子大生を殺害した事件であり、犯行時にレッサーパンダの帽子を被(かぶ)っていたことで注目を浴びた。副島主任弁護人は、「障害と犯罪」の問題を正面から論じた。後者は、筆者が理事長を務めていた、東京都国分寺市の通所施設への連続放火事件である。通所生が逮捕され、冤罪としての弁護がなされたが、最高裁で有罪が確定した。

2 本格的な取り組み

この問題を論じるきっかけとなったのは、山本譲司氏の著書『獄窓記』(2003)であった。秘書給与不正事件で実刑になった元衆議院議員の氏は、刑務所の中の障害者・高齢者の実情をリアルに著した。その衝撃を受けて「契約になじまない障害者等(触法・虞犯障害者)の法的整備のあり方学習会」が始まった(2005―2006)。当時、宮城県知事であった浅野史郎・宮城県社会福祉協議会長名で招集されたこの「勉強会」は、実質的には田島良昭氏・同社協副理事長(社会福祉法人南高愛隣会/コロニー雲仙・理事長)が率いるものであった。

この「勉強会」は、民間人の主催でありながら、厚生労働省の会議室で開催され、同省と法務省の関係職員が助言者(オブザーバー)という形で参加した。両省の役人が期せずして交流を図り、この「勉強会」の成果は、厚生労働科学研究「罪を犯した障がい者の地域生活支援に関する研究(代表者:田島良昭、2006―2008)」へ引き継がれる。そこでは、地域生活を明らかにするとともに、現在の「定着支援センター」の原型が提案されることになる。

筆者は、この「勉強会」と「研究」に田島氏の計らいで、参加の機会を得た。それは、当時の筆者の立場(全日本育成会常務理事)からであり、この問題に強い関心をもつことを氏が評価してくださった結果だと理解している。そのことが、同法人の「東京事業本部長」としてこの問題の事業に関わる(2007.12―2010.3)ことにつながる。私にとっては、初めて当事者(弟・親)としてではなく、専門家として関わる障害問題となる。

じつは、障害のある長男は、1992年からこの法人で支援を受けている。当初は措置による入所施設への入所であったため、「地域生活を主張する者の矛盾(言動不一致)」として揶揄(やゆ)されたこともある。親は、微妙な立場であることを、常に自覚せざるを得ないのである。その後、地域生活に移行し、支援を受けながらも自立した生活を送っている。この法人はその後、2種の入所施設を閉鎖(解体)し、完全に地域福祉体制を確立した。

長男を託した理由は、田島氏の人権意識に裏打ちされた実践への高い評価があったからである。「障害と犯罪」の問題で、氏が先駆的な役割を果たしたのは偶然ではない。行動力と組織統制力により、氏に毀誉褒貶(きよほうへん)の評価があることは承知するが、障害のある人への思いに疑問を抱いたことは一度もない。この間の動きは彼なくしてはあり得なかったし、この問題への関わりを人生最後の仕事として引き合わせていただいたことに深く感謝している。

3 社会福祉士としての関わり

「勉強会」や厚労科学研究、そして「東京事業本部」の仕事の中で、「障害と犯罪」の問題の実情を深く知ることができた。それは、司法分野の人にとっては周知のことかもしれないし、福祉関係者の間でも耳にすることである。特に、同郷であり、大学も先輩である副島洋明弁護士には、出会った時から、機関誌『手をつなぐ』の編集委員をお務めいただいていた頃から、折に触れこの問題の提起を受けてきた。まさに、わが師である。

この問題に本格的に取り組み始めて、当事者(弟・親)として主張し、行動してきたことの弱点を思い知らされた。いや、無意識の中で見逃してきた、結果として切り捨ててきた事実を認めざるを得ない。「親の会」は、主張する(行動する)親がいるということである。しかし、初めから何らかの事情で親がいない、あるいは主張することが弱い親の場合、障害のあるその人をだれが護(まも)り、代弁をしてきたのだろうか。打ちのめされる思いであった。

当事者(弟・親)の立場から社会福祉の専門家としての取り組みへの発展が、司法分野との連携の際には不可欠と認識した。福祉と司法の各分野では、専門用語さえ異なることがあり、司法分野の福祉分野への不安(不信感)を感じていた。それは秘密保持(守秘義務)への認識の甘さであり、医療分野からの視線に感じることである。連携を言うならば、情報の共有についての信頼が不可欠であり、その保障が法的に求められる。

何より、障害のある人の犯罪の多くは、社会的な(環境的な)背景を無視できない。障害それ自体が直線的に犯罪につながることは極めてまれであり、多くは不十分な支援等の問題をその原因とする。罪を犯した知的障害者の多くが、療育手帳さえ保持していなく、知的障害者として支援される状況にない。また、家族や環境に弱点を抱え、児童期からの支援が必要な場合が少なくない。犯罪への道は、福祉の敗北であるとさえ言える。

以上の観点から、筆者は社会福祉士の資格の取得を目指し、昨年3月、無事合格することができた。そして、その役割が終了したことにより、法人が「東京事業本部」を閉鎖したため、同じ場所において社会福祉士の独立事務所を立ち上げ、同じようにこの問題に関わり続けている。東京事業本部の時の事例に加え、さまざまな形で新たな相談が寄せられる。多くが途方に暮れた結果であり、まさに制度の隙間(すきま)に落ち込んでいる人々である。

4 支援の現状と課題

独立型事務所での関わりと並行し、筆者は(社)東京社会福祉士会の「刑務所出所者の地域生活支援プロジェクト(通称:刑余者P)」の委員と保護司として、この問題に関わってきた。そこで改めて、この問題の大きさを認識することになる。特に、被疑者段階からの対応が重要であるという認識を強めた。厚労科学研究(責任者:田島良昭)の第2期のテーマはこの問題であり、各方面からもその指摘がなされ、実践の発表もされている。

犯罪の予防としての福祉の役割に加え、犯罪として認識された事犯の発生に対し、福祉的な介入が不可欠であり、欧米においてはシステムとして確立されているという。そのためには、法整備等の本体の確立とともに、その役割を担う社会福祉士(ソーシャルワーカー)の養成と資格制度が必要である。また、その基本となる研究と学問的な探求が求められる。昨年からの新しい社会福祉士の国家試験に、「更生保護」の科目が加わった。今後は、これが「司法福祉」として発展し、深められる必要がある。

すでに、法務の関係者を中心に日本司法福祉学会があるが、福祉分野の積極的な参加が求められる。また、東京社会福祉士会では、「刑余者P」を発展強化し、新年度より権利擁護委員会の「司法福祉小委員会」とする。数年以内には、正式な委員会として独立する予定である。その流れの中で、東京都地域生活定着支援センターの事業受託への応募となったのである。社会福祉士として、組織として、この問題へ取り組む決意である。

「企画提案書」をまとめるに当たり、このセンターの成否は、特別調整者として矯正施設から無支援状態で退所する人の受入体制の如何(いかん)であると痛感した。すなわち、「定着支援センター」はあくまでも連携・調整機関(コーディネーション機関)でしかない。出所者を引き受け、日々の生活支援を行うのは、各福祉事業の現場である。この人々は、罪を償った「福祉の支援の必要な障害者・高齢者」であることを、私たちは認識する必要がある。

「福祉は、最も弱い人のことを念頭に置くべきである」というのが田島氏の提言である。声の大きい人を優先してはならない。この点、筆者はまさに天に唾する感がある。大きい声を、弱い仲間のために、陰にある人のために使わなければならない、と自省を込めて提案するのである。社会福祉士という武器を得た今、その武器を最大限効果的に使いながら、司法分野の人々との信頼を築きあげていきたいと考えている。

さいごに

長男が障害をもち多くの困難に直面した時、じつに多くの友人知人、そして専門職に助けていただいた。そのおかげで、文字通りわが一家は生き延びてきたという思いがある。すべての人に心から感謝するとともに、「犯罪と障害」という新たな分野で、そのお返しをさせていただいている思いである。どのような人でも排除しない、本当に強い「包み込む社会(Inclusive Society)」を作るために、ささやかに寄与できれば幸いと考えている。

(まつともりょう 社会福祉士事務所・早稲田すぱいく、社会福祉士)


〈追記〉校正までの段階で、「大震災」の実態が明らかになってきた。被災された方々に心よりお見舞申し上げるとともに、我々の支援の力が試されていると思う。予想される長く厳しい生活を、全力を挙げて支える決意である。