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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年5月号

差別禁止法への提言

池原毅和

はじめに

障がい者制度改革推進会議のもとに差別禁止部会が設置され、日本でもようやく障害のある人に対する差別を禁止する法律が立法化される現実性が高まってきた。しかし、ADAなどの経験から、差別禁止法ができたからと言って、直ちに障害のある人に対する差別と社会的排除が解消するということにはなっていない現実も見えてきている。

差別のパラダイム転換

障害者権利条約は、「差別」について伝統的に差別とされてきた「直接差別」のほかに「間接差別」を加え、また、「合理的配慮」を行わないことも差別になると定めている(2条)。これは単に禁止されるべき差別の範囲や態様を拡大したということにとどまらず、差別についての見方を差別者側から差別される側に転換するパラダイムシフトを提示したものと理解すべきである。直接差別は障害を明示的に狙い撃ちにし、差別者が差別する意図をもっていることを典型としている。

これに対して、間接差別は表向きは障害を明示した差別ではなくても、その区別や排除、制限が、「他の者との平等を基礎としてすべての人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする…効果を有するもの」1)であれば、差別になるとするものである。直接差別が差別者側の主観的な意図や、それが客観的に反映されている障害に対する殊更な区別という差別者側の事情を前提にしているのに対して、間接差別は、差別される側の人権および基本的自由の享受・行使を阻害し無効にする結果を生じさせていることに着目し、その結果を生じさせた行為が意図的であったか、障害を狙い撃ちにしたものであったかを問題としない。

差別される者にとっては、差別する者の行為が意図的であってもなくても、社会的に排除される結果が生じていれば同じダメージを受ける。むしろ無知や無配慮から障害のある人の存在を考えずに作られてきた制度が、より多く障害のある人を差別してきたという事実がある。こうした経験から障害者権利条約が間接差別を差別概念に加えたことは大きな意義がある。

また、人権および基本的自由の享有・行使を確保するために、障害のある人の個別具体的な生活場面で必要とされる変更および調整としての「合理的配慮」2)を行わないことが差別になるというのも、差別の軸足を差別者側ではなく差別される者の側に置いた考え方である。

そもそも差別者の意図や主観を前提として差別概念を構成する意味は、差別者が予期しない差別の抗議を受けることがないようにする多数派保護の防波堤の役割を持たせるためにすぎない。差別概念に間接差別と合理的配慮を加えたことは、差別概念の本質的な構成要素を差別する側の動因から差別される側が受ける影響へと転換させることを意味している。これから策定される差別禁止法には、当然ながら間接差別の禁止と合理的配慮の欠如を差別とする規定が必要である。

障害の定義が足かせになるとは

障害者権利条約は、障害の定義について医学モデルから社会モデルへの転換を支持しながら、障害は形成途上にある概念であるとして確定した定義をしなかった(前文e)。障害の定義は、社会保障給付を定める法律と差別禁止を定める法律ではその範囲が異なりうる。障害の定義を社会モデルから明確にすることは、障害が社会的現象であり、社会が責任を持たなければならない問題であることを明らかにする意味がある。しかし、個別の法律のレベルでは、障害の定義はその法律の目的によって異なりうる。

社会保障給付を定める法律では、給付を必要とするニーズを持った人としての障害のある人の範囲が定められなければならないが、差別禁止の関係では「障害」に関連して差別を受ける危険性のある人の範囲を定めなければならない。前者は他の人は原則として受けえないサービスを取得する地位を定めるという観点から範囲が定められる必要があるが、後者は障害に関連して特別な保護を与えるわけではなく、もともとだれでも原則として差別されてはならないのだから、その定義を厳密に画するよりは、障害に関連して差別に曝(さら)される危険性がある人を広く含めるべきだと考えられる。

こうした点からすると、差別禁止法上は「障害」は心身の機能または形態が、社会通念上、標準(偏差)から乖離しているとされる状態という程度の大枠の定義で十分ではないかと考えられる。「社会通念上、標準(偏差)から乖離しているとされる」ということの意味は、社会からそのように受け取られることを意味しており、医学的に機能障害があるかどうかは問わない。また、「標準(偏差)から乖離している」ということはマイノリティーの地位に立つことを意味している。

そして「差別」がこうした状態に関連して行われている場合は、障害のある人に対する差別を禁止する法律の適用があることになる。「こうした状態に関連」する場合としては、そのような状態にあったこと、あるいは、そのような状態に至ることを理由とした差別も含まれ、また、そのような状態にある人に関係がある場合(例 家族としてケアにかかわるために通常勤務が困難など)も含まれる。従来、障害の定義については、社会モデルに沿った定義としてさまざまな提案がなされているが、差別禁止法との関係で重要なことは、「障害」の定義が足かせとなって、差別禁止法適用の間口が狭まらないようにすることである。

社会的排除のない平等な社会

差別禁止法は、基本的には個々の障害のある人が差別を受けた場合に、実効性のある個別救済の道を作ることである。個別救済の最後の砦は伝統的には司法権であるが、日本型司法の行政依存性と極端な司法消極主義(違憲判断はほとんどしない)のもとでは、裁判規範性のある差別禁止法を作っても、それだけで差別のない社会が実現することにはならない。裁判を起こすことには大きなエネルギーが必要であり、すべての差別事例が訴訟の俎上に上るわけではない。また、敗訴する場合も起こりうる。これに対して、障害のある人に対する差別事象は社会内に広汎に存在しているので、個別救済だけで社会を変えていくことはできない。そうした面から、障害者権利条約は「地域社会への障害のある人の完全なインクルージョン」を行うことを締約国の義務としている(19条柱書)。

差別禁止法は、個別救済と個々の障害のある人の状態に即したオーダーメードの合理的配慮義務の実現への道を定めることを基本とするが、インクルージョンの実現のための国および自治体、その他の社会組織の義務を定めることも必要だと考えられる。その大枠は障害者基本法に定められるべきものであるが、さらに、個別的な生活領域で求められるインクルージョンのための措置については、それが社会的排除の廃絶と平等社会の実現にかかわるものであることから、総合福祉法などよりも差別禁止法で定める方が適切だと考えられる。

パラレルトラック論

従来、人権モデルの代表となる差別禁止法と社会福祉モデルの代表となる障害者雇用促進法、その他の社会保障法が理論上両立するのかという問題が議論されてきた。しかし、二つのモデルは、究極的には障害のある人がこの社会で尊厳をもって生きる権利を保障することに行き着くべきものである。人権モデルは個別的救済・司法的救済を主な手段とするが、私たちの社会が形成してきた障害のある人に対する社会的排除の巨大な社会構造はあまりに強固に構築されており、個別救済だけでそれを打破し社会構造を転換することはできない。その意味では、障害のある人の尊厳を基本に据えることを再確認しながら、人権的個別的救済アプローチと社会保障的行政的アプローチの二本の剣で旧弊を変革していく必要がある。障害者基本法の改正が近くなされる中で、これに続く差別禁止法と総合福祉法がその二本の剣の役割を果たせるよう効果的な規定が定められていくことが期待される。

(いけはらよしかず 弁護士・東京アドヴォカシー法律事務所)


1)障害者権利条約の訳文は川島聡=長瀬修仮訳(2008年5月30日付)による。

2)合理的配慮というと、合理性が要件として独立に存在するかのように感じられるが、差別された側の主張立証事項としては、自己の人権および基本的自由の享有・行使を確保するために、個別具体的な生活場面で必要とされる変更および調整策を提示すれば足りるとすべきであろう。これに対して、差別者側が提示された変更・調整策が過度の負担であるか、合理性を欠くものであることを抗弁事由とするべきであろう。