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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年10月号

1000字提言

心の底が透けて見える

辛淑玉

米国で市場調査をしていたとき、コーディネートをしてくれたサンフランシスコの友人が、「日本から来る視察団はダメだわ」と、ため息をつきながら語ってくれた。彼女に言わせると、まず、オーダーで多いのが「障害者施設を訪問して実態を把握したいので、そのコーディネートをお願いしたい。ついては、公的機関で全体的な状況を学び、施設長と語った後に、当事者と過ごせる時間を作ってもらいたい」というものだ。

この時点でアウトである。まず、このオーダーでは、先に健常者に会って管理の状況を聞き、その後に当事者と会うというのが前提だ。管理する人、される人、と2分されている。
しかし、私の知る限り、米国では公的機関の窓口をはじめ、施設の運営も管理も当事者が担っているところがほとんどだ。責任者といえば必ずと言っていいほど当事者が出てくるのが当たり前。だから、この手の注文には応えようがない。

また、日本の視察団が一様に驚くのは、面会するのにお金がかかることだ。彼女が「2時間で200ドルです」と言うと、まず、それがコーディネート料だと錯覚しているので、時間が伸びるごとに加算されると聞くと「えっ、お金を取るの?」となるのだ。

当たり前だ。彼らは、自分たちの時間を割いて訪問者の相手をする。そして、無知な健常者の彼らに説明をするのだ。それが施設を運営する彼らの仕事であり、料金を請求するのが正当な権利であるのは当たり前だ。

ところが、日本ではどのような施設であっても、「行ってあげる」「訪問してあげる」という感覚ばかりで、来てくれてありがとうと言われることが当たり前になっている。いわんや訪ねてきた人に、「じゃ、1時間1200円です」などと言おうものなら、おそらく多くは、何とがめついと眉をひそめるだろう。

私の知る限り、社会の障害と共に生きる友人のすべてが、経済的には苦しい状況の中にいる。それは、生きる権利をこの国の政府が認めていないからだ。そうやって貧しくさせておきながら、彼らを金には目もくれず清廉潔白で感謝をする人たちという「美しい障がい者」の枠にはめ込む。

それは、「健常者」と言われる特権階級が、自分たちに逆らう人や、問題を突きつけるような「障がい者」を排除し、ストレスを感じることなく生きていくために必要な装置なのだ。

だから、上から目線でいつも「保護」しようとする。お願いされることでしか社会の中の障害を変えようとしない健常者の傲慢さが、あちこちで見透かされている。

(しんすご 作家、人材育成コンサルタント会社・香科舎代表)