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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年10月号

文学にみる障害者像

有川浩著『レインツリーの国』

野田晃生

有川浩について

『レインツリーの国』は、有川浩(ありかわひろ)による、2006年刊の小説である。この『レインツリーの国』は、有川浩の作品『図書館戦争』シリーズの一つ、『図書館内乱』に登場する小説、という設定になっている。

作者の有川浩は、1972年生まれ、2004年に『塩の街』でデビューを果たした、高知県出身の女性作家である。有川の作品は、初期においては、自衛隊を扱う等、ミリタリー色が強いということ、また、恋愛描写が非常に繊細であるということが特徴として挙げられる。『レインツリーの国』は、現代日本が舞台となっており、主人公の2人は普通の会社員であるため、ミリタリー色はないが、恋愛の要素を取り入れた作品である。

有川は、夫が2回突発性難聴にかかり、処置が早かったことと医師が非常に的確に治療したために、2度とも失聴せずに聴覚復帰したという経験をしている。その経験から、『図書館内乱』のエピソードが作られた。

『レインツリーの国』のあとがきで、有川は「これは『図書館戦争』シリーズの一エピソードではなく、この問題を抱えた人々を主軸にして真っ向勝負で飛び道具なしの恋愛物を書いてみたい」と思うようになった、と書いている。

『レインツリーの国』の物語

『レインツリーの国』の物語の舞台は、現代の日本である。物語の中心となる人物は2人、健聴者の男性、ハンドルネーム(HN)「伸」(本名・向坂伸行)と聴覚障害者(中途の感音性難聴)の女性HN「ひとみ」(本名・人見利香)である。

『レインツリーの国』では、2人が知り合うのはネット上である。自分にとっての思い出の小説「フェアリーゲーム」の感想を書いてあるサイト「レインツリーの国」をネット上で見つけた「伸」は、ブログの管理人「ひとみ」にメールを出す。ここから、2人の交流が始まる。ネット上でのやり取りでは、小説内でも字のフォントが変えられて行われる。有川は、「ヒロインのひとみがフォントによる文章を大切に書く、そして伸がその文章に魅かれていくという設定は、実際に残された言葉を大切に扱われている中途失聴・難聴者の皆さんの姿に触れたからこそ生まれたものだと思います。」と書いている。

何回かのメールのやり取りの後、2人は実際に会うことになる。電話で話をすることを持ちかける「伸」に「ひとみ」は直接会いたいという返事をした。「ひとみ」は自身の障害を「伸」に伝えなかった。しかし、実際に会ってみると、コミュニケーションに行き違いが生じ、2人はギクシャクするようになる。たとえば、一緒に映画を観ることになった時、「ひとみ」は吹き替えではなく、字幕で観ることを譲らなかった。これは、「ひとみ」は字幕でなければ映画の内容を理解できないために主張したものだったが、この時点では「伸」は「ひとみ」の障害を知らなかった。デートの最後、エレベーターの重量オーバーの音に気付かなかった「ひとみ」に「伸」は怒鳴ってしまう。そこで、「……重量オーバーだったんですね」と謝る「ひとみ」の髪の間から見える補聴器を見て、初めて「ひとみ」が聴覚障害者であることを「伸」は知ることになる。こうして、2人の初めてのデートは終わる。

この出来事の後も2人の間は切れなかった。「ひとみ」は切ろうとしたのだが、「伸」の方が切ろうとしなかった。聴覚障害を理解し、「ひとみ」を理解しようとしたのである。「ひとみ」の側も、相手のことを理解しようとする。また、自身の障害についての考え方を変えるようになっていく。

2人の恋愛は、紆余曲折がありながらも進んでいく。「伸」の周りに女性(健聴者)が登場したりもする。「ひとみ」にも自身の障害故に引いてしまう傾向もあった。「ひとみ」は会社内で特に女性社員の中で孤立していた。「ひとみ」は高い女性の声は聞き取りにくかった。これに対して、男性の声は低いため、それなりに聞き取ることができたので、相手が女性の場合と比較してコミュニケーションをとることができていた。しかし、女性社員からは「私たちとは喋らないくせに男とだったら愛想よく喋るのよね、あの子」と嫌みを言われていた。さらに、社内で「ひとみ」が喋ることができないと思った嘱託社員が猥褻(わいせつ)行為に及んだこともある。デート中に他の心ないカップルからされたことに対する行き違いから、2人の距離が遠くなってしまう場面もある。

終盤、「髪を切ってみないか」「服を変えてみないか」という提案が「伸」から「ひとみ」に出される。これは、髪を短く切ることによって、補聴器を他人から見えるようにすること、動きやすい格好をすることによって、危険を避けられるようにするというものだった。

最終的に2人は、恋人同士として結ばれる(これからも困難があるだろうということは「ひとみ」も感じている)。最後のシーンで「ひとみ」は補聴器を誇示するように短くなった髪をかき上げる。「それは、ささやかな仕草だったが、無理解でひとみたちのような人間を傷つけることが多い世界に少しだけ何かを主張してやれた気になれた。」と書かれている。

聴覚障害者にとっての、コミュニケーション・恋愛

これまで、聴覚障害者が登場する恋愛物語と言えば、漫画やテレビドラマでは、軽部潤子の『君の手がささやいている』、北川悦吏子の『愛していると言ってくれ』のように、手話がツールとなるものが多かった。健聴者と聴覚障害者が、手話を通してコミュニケーションをとり、愛を語り合う、というものであった。

しかし、この物語では違う。「ひとみ」は手話はできない。「ひとみ」のような中途の聴覚障害者の場合、途中から手話を取得するのには大変な困難がある。2人のコミュニケーションの手段は、主としてネット上で行われる。『レインツリーの国』では、2人の出会いもネット上であり、物語の中では、最初は「ひとみ」が聴覚障害者であることも明らかにされていなかった。

ネットの登場、普及は、聴覚障害者に限らず、障害者のコミュニケーションの可能性を大きく広げることになった。「ひとみ」と「伸」の出会いもネット上であったし、2人のコミュニケーションは直接会ってデートをする以外に、ネット上でのメールやチャットが大きな役割を果たしていた。

また、物語の終盤には、電車内で2人が携帯電話のメール機能を使って会話をする場面がある。電車の中では、騒音や他の乗客の話し声のために「ひとみ」は聞き取りに困難が生じる。2人は、メールの作成画面に言葉を書き、見せ合うことによって会話をするのである。携帯電話のさまざまな機能も、聴覚障害者にとってのコミュニケーションに大きな役割を果たしている。

有川は「『レインツリーの国』は別に何かを誰かに訴えたいとかそうしたことではありません。訴えるべくは当事者の方が訴えておられます。」としている。作品が出版され、聴覚障害者を含めた読者のアンケートの結果を受けた有川は、「この人たちを物語に都合のいい『キレイな人々』としては書くまい、と思いました。書きたかったものを存分に書かせてもらおうと思いました。私が書きたかったのは『障害者の話』ではなく、『恋の話』です。ただヒロインが聴覚のハンディを持っているだけの。聴覚障害は本書の恋人たちにとって歩み寄るべき意識の違いの一つであって、それ以上でも以下でもない。ヒロインは等身大の女の子であってほしい。」と書いている。

『レインツリーの国』は、障害者の恋愛、コミュニケーション、見方・考え方について考えさせられる作品である。帯にある、「青春恋愛小説の、新しいスタンダード」の言葉のように、この『レインツリーの国』は、恋愛、そして聴覚障害者に対する新しい切り口を開いた作品である。ちなみに、この作品は、NHKラジオによってラジオドラマ化されている。

もう一つの有川の作品『図書館内乱』の一エピソード「恋の障害」においては、この『レインツリーの国』が登場する。『図書館内乱』においては、『レインツリーの国』をめぐって事件が起こることになるのだが、その内容については別稿において述べたい。

(のだあきお 筑波大学大学院人間総合科学研究科)


◎有川浩『レインツリーの国』新潮社、2006年