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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年1月号

文学にみる障害者像

映画『オアシス』

佐々木卓司

イ・チャンドン監督は1954年韓国大邸(テグ)市生まれで、29歳のときに「戦利」で作家デビュー、多くの文学賞を受賞している作家だが、39歳のときに友人の映画監督に誘われて脚本を手がけたことから映画界に入る。「グリーン・フィッシュ」で衝撃的にデビューをした彼は、「ペパーミント・キャンデー」、「シークレット・サンシャイン」と次々に話題作を発表し、2009年には「冬の小鳥」を発表している。

今回紹介する「オアシス」は彼の3作目の作品として2002年に発表され、ヴェネチア国際映画祭で監督賞をはじめ、韓国内外で多数の作品賞や監督賞を受賞したものだ。日本では2004年に劇場公開されている。

映画は、交通事故による過失致死罪で服役していたジョンドウが2年6か月ぶりに出所してきたシーンから始まる。韓国の習慣で出所してくる者には、その家族が豆腐を用意して出迎えるそうだ。だが、ジョンドウを迎える家族はこの2年半の間に引越しをしていて元住んでいた家にはいないのだ。

季節は冬。しかしジョンドウの服装は半そでのアロハシャツ1枚。寒々としたジョンドウの姿を見ていると思わず身震いしてしまう。でも寒いのは冬という季節や風の冷たさではなく、街と人がこの半そでシャツ1枚の男に冷たいことをカメラは追っていく。電話をかけても通じない。金も無い。ジョンドウは仕方なく無銭飲食をしてしまう。警察に捕まったジョンドウの身柄を引き取りに来た弟によって、やっとジョンドウは自分の家族と会うことができるのだ。

ただ、この冒頭シーンからそんな街の冷たさをカメラが追って行くことに気づいたのは、この映画を二度三度見てからだった。なぜなら、まずこのジョンドウの態度だ。両手をポケットに突っ込み、猫背気味にへらへらしながら歩いては通行人にタバコをねだり、女子学生をからかう様子はまるでチンピラやくざそのもので、映画に映し出される街の人と同様に私も、ジョンドウってなんて嫌な奴だろうと思うのだ。当然、ジョンドウの家族も彼の存在を疎ましく思っていて、出所してきた彼を誰一人温かく迎える者はいない。

30歳になるというのに何をやってもまともに勤まらないジョンドウに対し、兄さんが必死に説教をするが、貧乏ゆすりをしながら聞き流すジョンドウ。義姉さんのお財布から金を黙って抜き取るジョンドウ。周りの迷惑など考えず自分の気分だけで動いてしまうジョンドウ。誰も彼とまともに向き合う人などいないのだ。ところが、約2時間のこの映画を見終わったときに、私はこのジョンドウがたまらなく愛しくなっていた。

映画のあらすじだが、出所したジョンドウが、被害者の家族にお詫びに行くと、そこにコンジュという重度の脳性マヒの女性がいる。ジョンドウが訪ねた日、この家族は引越しの最中だったのだ。そこに自分の父親をはねて死なせた犯人が詫びに来たのである。驚いた兄夫婦は、二度と来るなとジョンドウを追い払うのだ。

実は兄夫婦の引越し先は、コンジュ名義で申し込んだ障害者家族のための公営マンションなのだ。しかし、コンジュに“自立するには良い機会だ”と、親と住んでいた古いアパートでの一人暮らしを選択させ、彼女を残して自分たちだけその新しいマンションに引っ越して行ってしまうのだ。

一人取り残されたコンジュが心配になったジョンドウは、次の日、花束を抱えて彼女の家を再び訪れる。障害をもつ彼女を前にジョンドウは自分の連絡先を書いたメモを渡し友達になりたいと言うが、緊張しているコンジュは言葉が出ない。そんな彼女を前にして、急に欲情したジョンドウは、コンジュの体を奪おうとするのだ。ところが必死に抵抗するコンジュがついに気を失っていることに驚いたジョンドウは、彼女を残したまま部屋を出ていってしまう。

やがて気を取り戻したコンジュは、さっき自分を犯そうとした男は何者なのか、なぜ花束を私に持ってきたのか、この私にそんなことをする人がいる現実に、その男の真意を聞き出したくなった。そして夜、男が残していった番号にコンジュから電話をかけるのだ。

こうしてジョンドウは、彼女の部屋を訪れるようになるのだ。洗濯をしたり、彼女を背負って車いすを持ち、地下鉄に乗せて街に出たり、朝から夜まで二人でいろんな話をしたり。コンジュのたどたどしい言葉を一つ一つ必死に聞こうとするジョンドウと、へらへらしてばかりのジョンドウを楽しそうに見つめるコンジュ。自分たちに向き合おうとする人など、これまで誰もいなかったジョンドウとコンジュにとって初めてのときめくような時間が流れ出す。やがて、お互いに恋人のような不思議な気持ちが芽生え始めるのだ。

空想の中のコンジュは普通の恋人たちと同じように、ふざけあい、笑い、けんかもする。“子どものような無邪気なジョンドウ、貴方(あなた)を抱きしめてあげたい、貴方のために歌いたい”そんなコンジュの想いが映画の中にあふれてくる。それをこの映画は私たちにまったく意外な方法で突きつけるのだ。

コンジュがある瞬間、まったく障害の無い状態で車いすから立ち上がり、ジョンドウとふざけあったり、見詰めあったりする映像。このとき、私は迂闊(うかつ)にも、「えっ、コンジュってこんなに綺麗だったんだ…」と驚いてしまったのだ。

でも映画の中では、重度の脳性マヒの状態のコンジュも、突然立ち上がって普通に歩き出すコンジュも、どちらもムンソリという女優であり何も変わっていない。

映画が始まってから、ずーっとコンジュに注目して観ていたはずなのに、結局私は障害のあるコンジュを女性としてではなく、重度の脳性マヒの障害者として見ていただけだった。

イ・チャンドン監督がどうしても映画にしなければならなかったのは、この瞬間の映像だったのではないだろうか。この映像を撮るためにムンソリという女優に障害をもつコンジュになりきってもらわなければならなかった。その監督の要求に応えるため、1年間もの間、実際に重度の脳性マヒの障害をもつ女性から演技指導を受けたムンソリは、見事にコンジュを演じきったのだ。

ところで、もう一人の主人公。ジョンドウ。このなんとも軽薄なちょっと間が抜けたような男の体の動きと心の葛藤を表現していくソル・ギョングの表現力と演技の巧みさは、映画を見終わった後から、ジワジワと観た者の心に迫ってくる。ソル・ギョングもまたこの映画のために1か月で18キロも減量してジョンドウになりきったのだ。そして、映画を見ている私たちにジョンドウとコンジュが問いかけてくるのだ。

あなたは今まで、一体何を見て、何を正しいこととして人生を送ってきたの?と。

ジョンドウが服役したのは、実は兄さんが起こしたひき逃げ事件のためだった。ジョンドウは兄の身代わりに出頭し服役したのだ。

「俺は2回も刑務所に入っているから慣れているし、それに俺は仕事も何もしてないから刑務所暮らしも平気さ!」

実にお気楽に社会の規範を考えているジョンドウの頭に罪の意識などみじんも無い。それは当然で、自分が犯した罪ではないのだから。家族からも嫌われ、誰からも相手にされないジョンドウにあるのは、人の役に立ちたい、自分を必要としてほしい。そういう思いだけだ。そんな嫌われ者の自分を見詰めてくれる不思議な女の子、コンジュ。彼女の喜ぶことなら、何でもしてあげたい。ジョンドウの心はうれしくてたまらないのだ。

やがてコンジュがジョンドウに「私を抱いて」と告げる日が来る。

戸惑いながらもコンジュを抱き、大丈夫?と必死にコンジュを気遣いながら体を合わせるジョンドウ。そんなベッドの上の2人を、たまたま訪れた兄夫婦が目撃してしまうのだ。

自分の父を交通事故でひき逃げした犯人が、今度は自分の妹を強姦している。それが兄夫婦が見た現実だった。

ジョンドウは捕まり、服役し、コンジュはまた一人になった。でも、もう2人は以前の自分たちとは違う。服役中のジョンドウからはコンジュにたくさんの愛を込めた手紙が毎日のように届く。朝の光の中で幸せそうに部屋の掃除をしているコンジュの後ろ姿を映し出すラストシーンは、映画を見たすべての人に、この映画がなんと素敵なラブストーリーなのだろうと気づかせてくれるのだ。

韓国を代表する名優ソル・ギョングと女優ムンソリ。この2人に“人が人として向き合うことの意味”を要求したイ・チャンドン監督。このような映画を製作し、興行できる韓国という国の心の深さと豊かさを認識させられる映画だ。

(ささきたくじ 身障文芸同人誌「しののめ」編集委員)