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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年2月号

1000字提言

思い上がりの怖さ

夫彰子

かれこれ4年前になる。5歳になるかならないかという男の子だった。初対面の私に近づいて来て、目が合った途端、こう尋ねたことがあった。

「誰のお母さん?」

そこは関東地方のとある知的障害児施設。「誰?」ではなく「誰のお母さん?」。幼い子どもからの問いに胸を突かれ、同時に頭をガツンと殴られた気がしたのを覚えている。

障害福祉の分野を取材するのは初めてではなかった。むしろ、今振り返ると悪い意味で慣れていた。当時は障害者自立支援法が全面施行されて3年目。「応益負担」を柱にした同法は依然、関係者から厳しい批判を浴び続けていた。私自身も施行前から、時には「1割負担」、時には「障害程度区分」、時には「小規模作業所の法内施設への移行問題」と、あれこれ切り口を変えながら取材していた。そのうちに心の底に思い上がりが蓄積されていったのだろう。「自立支援法の問題は分かっている」と。

この男の子は施設に入所後、一時帰宅どころか親が面会に来ることさえほとんどなく、利用料の支払いは滞りがちだった。彼が普段目にする大人と言えば、施設職員か「誰かの」親なのだ。「自分の」親ではなく。

自立支援法は、児童福祉法によって国や自治体が責任を持って守るべき子どもにまで、当時取材した厚生労働省いわく「親の責任で利用料を払ってもらう。払わなければ子どもが施設を出されても仕方ない」という理屈を強いた。それが子どもにとってどれほど過酷でやるせないことなのか、思いを馳せたことさえなかった。

数の上で社会的にマイノリティーとされる障害者の中で、障害児はさらにマイノリティーと言える。一方、児童福祉の面から眺めると、障害児は子ども全体の中でも少数派だ。障害があり、子どもで、でも家族や国は頼れず、そのことを誰かに訴える術も皆無に近い。私たちは日ごろ、障害福祉分野の役人や団体、家族、施設職員ら関係者を取材し、「取材した」と満足しがちだ。けれど、見知らぬ大人に「誰のお母さん?」とつい聴いてしまう子ども自身の切なさは、どんな「関係者」も代弁できないものかもしれない。

この間、自立支援法は廃止が決まり、私たち記者の関心も新たな法制度の中身へ向かっている。けれど、取材のテーマがどう変わっても「自分は分かっている」という思い上がりほど怖いものはない、と自戒を込めて思う。たとえ無意識であれ過信がある時ほど、過信しているからこそ、届かない声が、見えていない現実が、考えたこともない問題があることに、無自覚になってしまう。

(ぷ・ちゃんじゃ 毎日新聞記者)