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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年3月号

証言3.11
そのとき私は

目で感じた震災

菅原伸哉

2011.3.11、午後2時46分、記憶から決して拭い去ることはできない。いまだかつてない大震災の中、当初携帯で震度7を知った私。しかし大津波の情報は私自身も翌朝の朝刊で、なかには3日後に知ったという聴覚障害者もいた。仙台市中心部では目立った建物の倒壊等はなかったが、ライフラインが停止したことで、まず生活面でのさまざまな制限に直面した。正直苦しかった。

震災直後は沿岸地域に住む聴覚障害者の安否が気がかりであったが、重要な通信方法であるFAXや携帯メールは使用できず、情報は交錯。ガソリンの供給もままならないため、遠方へはなかなか行けない。そんなジレンマと闘う日々が続いた。やっとのことで沿岸部へ安否確認に向かうと、津波で指定避難所が消えていた。偶然再会できた者、行方不明の者、訃報の知らせ…心が痛まない日はなかった。

そんななか、私自身、阪神・淡路大震災の情報を、当時新聞に掲載されていた被災者の体験談から得ていたことに気づき、協会の広報誌「聴障宮城ニュース」で宮城の聴覚障害者の声を全国に発信しようと、取材に取りかかった。沿岸部の聴覚障害者宅を訪問し、生の声を手話で聞く。それを原稿に書き起こそうとすると、苦しさで打つ手が止まる。

私は協会の理事として、また広報部として沿岸地域への支援活動・取材を通し、私とは比べものにならないほどの心の痛みを抱いている方々が多くいることを知り、衝撃を受けた。また、体験談から、障害者の目から見た震災の実態が明らかになってきた。

東日本大震災から1年が経とうとしているが、心の痛みを一人背負って耐えている、ある聴覚障害者がいる。仙台市から程近い地域の沿岸部に在住の彼女は震災当日、午前中に手話サークルに行き、昼食時はみんなとのおしゃべりに夢中で、気がつくと午後2時半。時間に追われ、午後3時に予約していた美容院に車で移動。到着後、あの長く立っていられない程の大きな揺れに襲われた。店員に家に帰るように促され、大渋滞の中、午後3時半に帰宅。辺りには人一人いない。夫もいない。夫は避難所へ行ったのだろうと思っていた。

彼女は家の片付けを始め、ふと窓の向こうに目をやると、遠くの方からヒタヒタと水のようなものが。そのうちに、ものすごいスピードでその海水は襲ってきた。津波到達時刻は4時頃。窓ガラスは割れ、水は一気に彼女の腰の位置まできた。必死に2階へ上がった。無事だったが、海水は油を含んで異臭を放ち、体中にまとわりつく。携帯電話はその時に水に濡れて使用できなくなり、だれにも連絡ができなくなった。偶然にも2階の段ボールの中にあった水で、3日間しのぎ、助けを待ち続けた。その間、1階に下りることもできず、連絡もできず、ただ助けを待つだけ…。夜は港の方で火災があり、停電の中、その明るさだけが浮き立っていた。「夫はどうしているだろうか、別の避難所に行っているはず。後できっと会える。」

水位は徐々に下がってきた。案の定、車は海水に浸かって使えない状態になっていたので、彼女は徒歩で6時間かけて息子の元へ。幸いにも彼女の子ども3人は無事だった。付近の避難所を回り夫を探したが、1週間経っても行方不明だった。夫の職場でも把握していない様子。すると2週間後、会社から息子に連絡が。彼女は家族とともに遺体安置所で夫との無言の対面を果たす。遺体の顔は夫と全くの別人。しかし遺品に目をやると、夫の虫めがね、バッグ、会社の服、携帯電話。「ああ…本人だ…」と言葉を失った。

あの日、夫は午後3時半に自転車で職場を出て、約15分後に津波にさらわれた。職場から家までは30分だった。彼女はこうも語っている。「夫にだれも手を差しのべてくれなかったのか」と。

震災を経験した方はだれでも、それぞれに苦しい経験をしていることと思うが、彼女は聴覚障害者であり、聴覚障害者から見た災害を知ってほしい。彼女は帰宅後、家の片付けを始めているが、たとえ付近で避難放送や協力の声があっても聞こえない。おそらく近所の人々はすでに避難した後で、状況を把握するための十分な情報は無かった。聞こえないがために、彼女は突然、津波に襲われた。その後も自宅で孤立状態。震災時、聴者は携帯の代替手段として公衆電話を利用していたが、彼女には携帯メールの代わりになるものは何一つ無かった。

今回の震災を通して、情報格差の課題が多くあることが明らかになった。彼女のケースのみならず、聴覚障害者それぞれが感じた情報不足の場面は、避難所であり、買い物の場面であり、数多い。

彼女はとても辛い経験をした。しかし彼女のように、家族とつながりがあるということは、大きな強みである。手話通訳者が常に身近にいる、というのは稀なことであって、緊急時に家族や近所の顔見知りの方々に協力を依頼できるような環境作りが大切であると考える。そのためには、日頃から近隣の方々との交流を深めることが重要だ。

聴覚障害者に対しては、このことについて理解を促し、一方聴者に対しては、聞こえないということはどういうことなのか、緊急時、聴覚障害者に重要な情報をどのように伝達すればよいのか、手話だけでなく、筆談・口話・空書等があることの周知を図りたい。

今後は各障害にあった災害対策を考えていかねばならない。そして聴覚障害のみならず、それぞれの障害者の声に耳を傾けてほしい。みんなが安心できる生活、安らぎ、それだけを切に願っている。

(すがわらしんや 社団法人宮城県ろうあ協会理事)