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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年3月号

証言3.11
そのとき私は

突然の避難指示・震災後の苦難

菅野友美子

私の長男は27歳、重度の知的障がいを伴う自閉症です。

大震災の日は、福島県富岡町の入所更生施設「光洋愛成園」に居ました。激しい地震の中でも、あまりパニックになることもなく、指導員の指示にしたがって、集会室に集まって、揺れが収まるのを待つことができたと聞きます。やはり、日頃の避難訓練で身に付いているものがあったのではと、思います。尋常でない揺れの中で、わが子なりに不安はあったのではないかと思いますが、それでも園生活の中や、今まで培った経験は大きいのではないでしょうか?

私は、相馬市内の保育園に勤めておりましたので、園児たちの安全確保が最優先でした。保護者の皆さんが、やっとの思いで園まで迎えに来て、無事なわが子を確認して、涙を流して連れ帰る姿を見送り、夕方になって残りの園児が少なくなった頃に帰宅を許されました

それから施設に連絡をしようにも、電話が通じず状況も分からず、迎えに行こうにも、国道も津波で何か所も寸断されていて、途中まで行ってみたものの諦めざるを得ない状況でした。

不安の中でも、私の救いは長男の入所施設と同じ法人の作業所に勤めた二男の存在でした。二男からのメールで長男が無事でいることが確認できただけでも、どれほどうれしかったか分かりません。

その時、相馬市沿岸を10メートルを超す津波が襲い、亡き夫が残してくれた家の1階部分が壊滅的被害を受けていたことは、想像すらできませんでした。その家にいた義父母は、近所の方に助けられ、無事に避難していることは夜になってから確認がとれました。私は実家に暮らしており、家屋も父母もとりあえず無事でした。

しかし、長男たちの本当の災害、苦難は、震災の次の日から始まりました。

大地震で、施設自体も相当の被害を被りましたが、それでも生活できない訳ではなかったのです。それが、12日の早朝『原発が危ないから避難するように』との、富岡町からの突然の避難指示。どこに、どのように避難しなさいではなく、

『とにかく西に逃げるように』

それだけだったと言います。3日分の着替えと薬を持っただけで、とるものもとりあえず、法人所有のバス3台に乗りあっての突然の避難。いったい何事なのか、長男には、理解することは難しかったのではないかと思います。

グループホームの利用者の方々も一緒に、職員の方々にとっても、どこに行ったらよいのかも分からない状況の中で、途方に暮れる思いだったに違いありません。数か所避難所となっている場所をあたっても、総勢80人以上という人数の関係で断られ、何時間もあちらこちらを探しまわって、やっと三春町の「さくら湖自然観察ステーション」を避難所として使わせてもらえることになったのは、夕方になってからだそうです。

その間、途中の避難所でおむすびを各自1個もらえただけで、食事もろくにできず、トイレ休憩も思うようにとれない状態だったとのこと。やっと、落ち着く場所に辿り着いたとはいえ、冷たい床の上に段ボールを敷き、その上に毛布を敷いたくらいの寝床。雑魚寝状態で、顔の横にはだれかの足がきていることもあったり、余震もひっきりなしに起きる状況の中で、電気もつけっぱなしの状態。

普段とは違いすぎる生活、それを聞いただけでも、何てひどい状況だったのかと、胸が詰まる思いです。きっと、なかなか寝付けない日々が続いたことでしょう。体調を崩す利用者も多かったということです。

何も分からない状態のまま、突然バスに乗せられ、何時間も転々とし、知らない場所へと連れて行かれ、眠ることもできないような状況の中での不安は、どれほどのものだったでしょう!

言葉を話すことのできない長男ですから、その時の本当の心情を聴くことはできません。しかし、1か月後に、二男の運転する車で、久しぶりに顔を見ることができた時の、私の顔を何度も何度ものぞきこんで、「フフフフ」と笑いがこみあげて止まらない様子を見れば、どれほど再会がうれしかったのかが分かりますし、頬のこけた顔を見れば、どれほど辛い思いでいたのかうかがい知ることはできます。

そんな中でも、まだ、うちの子の施設は単独で「さくら湖自然観察ステーション」をお借りすることができて、他の知らない避難者の方々と一緒になることがなく、施設の仲間と、信頼のおける職員の方々とだけ居られたことは、多少なりとも、ストレスの軽減になったことと思います。

職員の皆さんには、自分の家庭も、震災や原発事故の避難などで大変な状況の中なのにわが子をはじめ、利用者のために尽力くださったことに心から感謝しております。

その後、群馬県の「のぞみの園」で、3棟をお借りして移動できることになりました。今までの何倍も遠い、知らない土地での生活ですが、恵まれた環境の中で生活できることは、『不幸中の幸い』と言えるでしょう。もっと過酷な環境の中にいなければならない方々がたくさんいるのですから…。

でも、なかなか会いに行くことができない状況になってしまったことは間違いありません。大震災だけだったら、こんな酷い経験はせずに済みました。天災なら、仕方ないことと諦めることもできるでしょう!

しかし、福島県民が被った災害は、諦めきれない。怒りと憤りは、決して消えることはありません。

原発事故さえ無ければ…。

(かんのゆみこ 障がい児放課後支援ゆうゆうクラブ代表)