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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年3月号

証言3.11
そのとき私は

東日本大震災、その時透析患者は

阿部一治

東日本大震災が3月11日午後2時46分に発生し、その約1時間後、沿岸地域は10メートルを超える津波に襲われ大被害を受けた。当然、透析施設のある病院やクリニックも津波に襲われた。宮城県沿岸部の透析医療機関や患者の様子をご報告したい。

震災直後、宮城県内施設で透析ができるベッド数は239床で、約4,390人を超える透析患者は、県内外の透析施設で臨時透析を受けることとなった。透析難民が出ることを防ぐため、仙台社会保険病院では、透析ができなくなった患者らに透析を受け付ける旨をラジオやテレビで放送したところ、患者が殺到して大混乱となった。同病院では、震災直後から3月16日まで、24時間体制で透析を続けることとなった。

高台にあった気仙沼市立病院は津波被害を直接受けなかった。しかし、道路はがれきや流されてきた車で寸断され孤立する形となった。志津川、本吉、陸前高田などの施設が津波被害を受け、この地域の透析患者を同病院で受け入れることになった。震災直後、180人ほどの患者は200人ほどになり、透析資材が1週間分ほどしかなく在庫がなくなってしまった。そのため、北海道へ79人、千葉方面へ8人、その他山形、秋田、岩手県へ約110人を病院関係者の協力で移送した。その後、移送した遠隔地と気仙沼市立病院との連絡がスムーズに行かず、メンタル面等の問題を残した。

沿岸部から遠く離れた高台にあった石巻日本赤十字病院は津波被害を全く受けず、拠点病院としての機能を果たした。病院関係者の努力によって透析資材が十分に調達できたことなどにより、透析患者だけでなく、さまざまな病気の患者や近隣の人たちが殺到し、病院内は混雑を極めたが治療は整然と行われた。

石巻蛇田地区にある宏人会石巻クリニックは床上浸水の津波被害に遭い、透析不能となった。しかし、震災直後に施設内を清掃して患者や患者家族が寝泊まりできるようにした。また、避難所に分散した患者が透析できるようにバスをチャ―ターし、1日おきに仙台方面を往復し透析を行った。

南三陸志津川クリニックでは、地震の揺れが収まってから透析を中止して、医師やスタッフ10人と患者14人が公立志津川病院の5階へ避難した。しかし津波は、公立志津川病院の4階まで襲い入院患者、病院スタッフを含めた78人が死亡、行方不明となった。南三陸志津川クリニックの患者には被害がなく、翌12日に、病院屋上より自衛隊のヘリで石巻日本赤十字病院まで2便で搬送された。

私個人は仙台市宮城野区福室3丁目の自宅近くで震災に遭った。その日、私は透析に行くため、自宅を出て200メートルくらいのところで激しい揺れに襲われた。体が宙に浮いたようになり立っていられないほどで、ガードレールにすがって揺れが収まるのを待った。歩道の脇を流れる小川は揺れで水しぶきを上げ、電柱が折れたりした。激しい揺れは3分以上続き、もうだめかと死を覚悟したほどだった。

揺れが収まってから自宅に戻り、家具やテレビなどが散乱していたので、家族と共に片付けをして住む場所を確保した。家にいた母親は無事だった。

その夜、透析のことを聞くために宏人会中央クリニックへ電話したが通じず、宏人会木町病院へ電話をかけて、12日以降のことを聞いたが、後日連絡するということだった。

次の日、自宅の電話や携帯電話が不通になった。携帯電話はアンテナ基地局の故障、自宅の電話は中継局のバッテリーの故障で、家の周辺が通信不能になった。電話も通じないし車のガソリンの残量も気になり、14日の夕方、車で中央クリニックに行って透析等の情報確認をした。その場で透析2時間と言われ、その日は2時間の透析を受けて帰って来た。次からは、夜間透析の患者は3時までクリニックに来ること、当面は3時間透析となることを告知された。その後、3時間透析は2か月ほど続いた。

震災直後、全腎協と宮城県腎協は、内陸部のガソリン不足と津波被害にあった地区のガソリンスタンド流出等によるガソリン不足に対応し、県に透析患者が利用する車へ優先的に給油できるパスカードの発行、津波被害地域へは、避難所と透析可能施設を巡回するチャーターバスの運行等を申し入れ了解された。これにより、大きな混乱もなく、患者たちは透析を受けることができた。

仙台市内の透析施設は、以前から宮城県沖地震を想定し、水の供給について仙台市と話し合いがもたれていたので、透析が可能になった時点での水の供給は迅速に行われた。

震災直後は食事さえままならない状態で、1週間経った後くらいから避難所の透析患者から体調不良を訴えることが多くなった。原因は、健常者と同じ内容の食事が配布されたことや、透析患者と言い出せないまま体を休める場所が確保できないことが上げられる。全腎協と宮城県腎協は、県に食事の改善と福祉休息スペースの確保を申し入れたが、各避難所までその申し入れの声は届かなかった。震災の混乱の直後、2人の透析患者が体調不良などで病院に搬送され亡くなったが、自宅にいて津波被害に遭って亡くなられた方以外には死亡者が出なかったことは本当に幸いと言えると思う。

震災直後、情報遮断や交通網の破壊、透析機器やライフラインの破壊などの混乱に陥ったが、各透析施設の関係者、医師、スタッフの尽力により、約2か月後には一部を除いて平常となった。

(あべかずはる 宮城県腎臓病患者連絡協議会広報部長)