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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年4月号

証言3.11
その時から私は

あの日あの時
―近所の方々が支えに、手を携え4人で避難

中村亮

大雪で明けた2011年。これから起こる多難な事柄を暗示するかのような年明けだった。ラニーニャ現象とやらの影響で、例年より厳しかった冬も終わりを告げ、待ちわびていた春の兆しが感じられたあの日…。私は釜石で鍼灸治療院を営んでいる、全盲の視覚障害者である。やはり視覚に障害のある妹と2人暮らしだ。

3月11日午後2時46分、私は一人の患者の治療を終え、3時の予約までの合間を利用してカルテに目を通し、メールチェックをしていた。突然、腹の底に響くような地鳴りを感じた。瞬間「地震」と察した。2日前にM7.3の強い地震があったばかりだ。「またか」と思う間もなく本震がやってきた。揺れは非常に大きく、一昨日のものとは規模が違うことを直感した。

火災を避けるため待合室の反射式ストーブの火を消し、沸いていたヤカンを手に揺れがおさまるのを待った。これまでに経験したこともないほどの、強くて、長い揺れだった。パソコンを置いてある机や、流し台、本棚などからガタンガタンと物が倒れる音がする。

揺れが少し小さくなったところで、事務室、治療室の状況を確認しようとした。事務室は手洗い用の洗面台から水があふれて床は水浸し。治療室は二つの戸棚の戸が開いて、中の治療道具類が床に散乱。カウンターや本棚のCDやカセットテープや本やカルテのほとんども同様。足の踏み場もない。重い本棚やカウンターが壁から5センチ以上も離れている。

ふと電気のことが頭をよぎった。常に流れているはずのBGMが聞こえない。「停電だ…」 それに気づいた瞬間、不吉な予感を覚えた。「とんでもないことになる」

このとき妹は買い物に出ていた。10分ほど離れたスーパーの中で地震に襲われた。「もしかして、俺たちはこれで終わりかな…」と思った。「大津波」の文字が無意識に頭を覆っていたからだろう。そして「逃げることができるだろうか」という耐え難い不安。何から行動すべきかさえも思い浮かばずに、半ば呆然としているところに、隣の写真館の奥さんが飛び込んで来てくれた。「割れた物でけがしないように靴を履いてて」と告げて出て行った。

津波の襲来と妹の安否を危惧しながらも、住宅部分の状態が気になり、2階に上がってみた。やはりすぐに手をつけられる状況ではなかった。外で防災無線らしい放送が流れている。「大津波の襲来が予想されるので高台に避難するように」と言っている。「果たしてどの程度の津波が来るのだろう」と思いながら1階に下りると、妹とお向かいのおばさんの話し声が聞こえた。治療室に私の姿がないので、中で倒れているんじゃないかと、確認してもらっていたという。何はともあれ、妹は無事帰って来てくれた。

「すぐ逃げるぞ」と言って、貴重品を取りに事務室に飛び込み、いつも持ち歩いているカバンにその辺のものを詰め込んで外に出た。そのとき「行くよ」と言う女性の声。斜め向かいの家に住む女性だった。「その格好じゃ寒いから、何か着なさい」と言われて気づいた。私は白衣姿だった。あわててジャンパーを取りに中に戻り、ついでに携帯ラジオを探した。すぐに見つけて聴いてみた。ちょうど釜石港からの中継だった。「津波が堤防を越えて、走行中のトラックをのみ込みました」というアナウンスに胆をつぶした。海岸からは500メートルほどしかない。もはや一秒の猶予も許されない。遅すぎたかもしれないという不安が胸中に去来する。「あっ、表通りの側溝から水が溢れている」と彼女が叫んだ。

避難場所はかつての中学校のグラウンド。直線距離で200メートルぐらい。自宅付近よりは少しは高い場所だ。女性の腕に私が手を添え、私のカバンに妹がつながり、妹の横に隣のおばさんが付くという4人編成。なだらかに続く坂道を黙々と避難場所に急いだ。前方の高いところからは「走れ、急げ」 「早くしろ」などと絶叫している声が降ってくる。津波が迫っていることが分かる。避難場所近くまで来て後ろを振り向くと、5、60メートル後方の交差点の米屋さんに水が入ったのを目撃。車が仰向けで流されていったという。一次指定避難場所の旧第1中学校のグラウンドまではもう一息だった。

グラウンド内は避難者のざわめきがただよい、すでに多数の人がいることが想像できた。津波は校舎のすぐ下で止まったらしい。避難場所では何度も大きな余震が感じられ、その度に怯えとも悲鳴ともつかないどよめきが方々から聞こえてくる。市の職員らしい人たちが毛布を配布して回っている。設置されてあるラジオからは、外国人向けの緊急時放送が流れている。

私たちは毛布で身を包んで、押し寄せる津波の情報に耳を傾けつつ1時間ほど待機していた。津波の先端から私たちがいる場所までは100メートル足らずだろう。さらに大きな津波が来たら多数の犠牲者が出かねないという判断で、もう一段高いところに移動した。

時間の感覚も麻痺し、どれだけの間そうしていたのかも分からないが、かなり寒くなってきたので、二次避難場所である近くのお寺に移動することになった。どれほどの津波が押し寄せ、町がどうなっているのか分からないが、とにかく視覚に障害をもつ私たちは、近所の方々の支えによって津波から命を守ることができたのである。

(なかむらりょう 岩手県釜石市)